『美しい、実に、美しい』 頭に残っているのは、ただその歓喜にも似た思いだけ。 あなたに、全てを求めたい。 ただ、それだけ。 ■ 精神病院。 そこは『感情』と『思考』を与えられた『人間』という枠組みに当てはめられることが出来なかった者達が集う場所……と言うと、これは差別だろうか。 精神などというのは脆いものだ。……いや、そんなものは始めからないのかもしれない。 自分の決めた道を、周りと同じ様に歩み、周りと同じように踏み外さないようにし、その頂点を目指した。ただ、その道が最初から逸脱していたのか、それとも『常識』という枠組み自体がその者には見えなかったのか。 「あの……脇田さんですか?」 その声に、私は長いこと座っていた長椅子から腰を上げた。横をみると、この精神病院の医者らしい白衣を来た女性がこちらを見ていた。やっと仕事を進められるようだ。 私は胸ポケットから警察手帳を取り出して彼女に見せた。 「こんにちは。捜査一課の脇田といいます。彼の用意はできましたか?」 愛想笑いを貼付けた私に、彼女は軽く頭をさげてよこす。 「はい、用意ができましたので……こちらです」 軽く手を先へと向けると、彼女はこの真っ白な建物の奥へと歩み出した。 光の届かないその独房へと続く道の奥は、暗い。 案内された部屋は大きな窓のある、暗い部屋だった。窓の先には狭い部屋に、たった一つのデスク。そして、男。窓は向こう側……つまり男から見れば鏡に見える。いわゆるマジックミラーというものだ。 中にいる男はうなだれている。目を見ると、それは影によって遮られて、中にある心情は見えない。うつむいたまま、地面を見ているのか、それとも患者に適用されるほとんど布一枚のような服の端を見つめているのか、それもわからない。 そこへ、私の前に白衣の女性がマイクを差し出した。私が彼女を見ると、彼女はまるで台本でもあるかのようにすらすらと話し始める。 「これから始めます。刑事さんの質問したことをマイクを通してこちらの職員が質問します……よろしいですか?」 それは私にとってあまり言い取引とは言えなかったが、それでも私はうなずいた。 「何か質問はありませんか?」 特に聞きたいことはない。あるといえば、窓の向こうの彼にしかない。私はかぶりを振り、用意された椅子へと、再び腰をかけた。 『いいわ、入って』 女がマイクを使って話しかけると、窓の向こうでドアが開いて、スーツ姿の男が現れた。おそらくあれが職員だろう。手にペンと記録用のシートをもって、男の前に対面するように、デスクをはさんで座った。 それを確認すると、私の横にいた彼女が「どうぞ」と言うように、マイクに手のひらを返した。 私はマイクを手に取る。 『名前と生年月日を』 窓の向こうでスーツの男が口を開く。 「名前と、生年月日を教えてくれないか?」 極力やさしく話しかけている様子だ。気を使っているのがわかる。もしここが警察学校の取調室だったら私は怒鳴り散らしていただろう。しかしここは精神病院。プロに任せるのが第一だと私は判断していた。 しかし、話しかけられた男は反応しない。相変わらず地面を見つめたままだ。 「名前と、生年月日だよ? どうだろう、教えてくれないかい?」 無反応だった。 それを見た女性が困ったように頭を下げた。かしこまった口調で 「すみません、前はこんなことなかったのですが……」 と私に話した。私は手を軽く振って「気にしないでください」とつぶやき返す。どうせこの女性は本気で謝っているわけではないのだ。とは思っても口には出さない。そしてそんなことを考える私の前で茶番がつづく。 「名前だけでもいいんだけど?」 「…………」 「忘れちゃったかな?」 「…………」 「何かはなしをしようか? ほら、好きな食べ物とかあるでしょう?」 「…………」 この調子ではらちが明かない。私は再びマイクを手に取った。 『事件について聞いてくれ』 「じゃあ、質問を変えるね。事件について何か知ってるかな」 「…………」 男は本当に、ピクリともしない。動かないから相変わらず目も、表情も読めない。まるで彼だけが違う世界に存在しているかのようだった。 『答えないと犯人がわからないと……たのむ』 スーツの男が座りなおして、今度はボディラングエージを加えながら話始めた。 「事件が何かわからないかな? 答えてくれないと、あなたをそんな風にした犯人がわからなくて困っちゃうんだよ。どうかな?」 「…………」 私は胸ポケットからタバコを取り出し、これは奴さん、長引きそうだな。とため息をついた。予想はしていたが、こんな大仰な事件起きたのだ、マスコミも騒ぎ出すから早めにケリをつけろ。とお達しが来ている。少し自分の頭をこずいて、いやいや、冷静になれと脳みそに語りかけた。 それを見て、横の女性がまたも「すみません」と頭を下げた。イライラしていて、どう反応すればいいかわからなかったが、とりあえず私はいつもの通り「慣れてますから」とだけ返した。おそらく、彼女はこうなることがわかっていたはずだ。あのスーツ姿の男の対応から言っても、今日突然こうなったと言うわけではあるまい。 どちらにしても短くてすむ要因ではないだろう。私は無表情を装って窓に目を向けた。 ■ ちょうど四時間くらいだろうか。 「ほら、あなたはりんごを食べるときだけすごく楽しそうに……」 「…………」 すでに話は全然別方向に飛んでいってしまっていて、どうにも捜査に役立ちそうにない。いつからりんごの話をしろと指示をとばしたのか、覚えていないし。いや、そんなわけないだろう。私は好きな話から話を聞きだせと指示をしたんだ。 三時間前に。 窓のなかのスーツの男も妙に激しくボディラングエージを加えていた。右や左に手を振り回し、いったい何を表しているのかわからないくらいになってきた。本当に茶番に見えてきた自分にため息が出る。 「…………はぁ」 ため息と共に私が二箱目のタバコを取り出す。それを見て、さらに女性が何回目かの「すみません」をつぶやいた。 「いえ……」 もう返答に困ってしまう。女性は私をみながらさらに困ったように頭を下げた。 「あの……そういうことじゃなくて……もう面会時間が過ぎていまして……」 「…………そうですか」 どうするか。上からのお達しは怖い。マスコミがうるさいのも確かだ。第一、こんな事件が外に漏れたら、しばらく昼のニュースはこの話でいっぱいだろう。そうなると、責任問題に…… だが、このまま渋っていても何かでそうにはない。あまり渋って、この精神病院の機嫌を損ねてはもうこの事件の手がかりがなくなってしまう。 私はしょうがなく、手につまんでいたタバコを箱に戻した。 『……すまないが、今日はこれで終わらせてもらう』 スーツの男は両手を挙げて片足を曲げるという、フラミンゴか何かのボディラングエージを行っていたが、少し固まって、すぐに椅子に座りなおした。 「いや、今日はもういいかな。また明日話をきいてくださいね。今度は、あなたが話をしてくれると嬉しいです」 そういって立ち上がるスーツの男をみて、私も椅子から立ち上がる。女性に頭を下げて、私は椅子にかけていたコートを手に取った。 「今日はここまでにしておきます。また、明日お話を伺いに来たいと思います」 今度は待ち時間ゼロがいいのですが、なんて絶対に言わないが。彼女はそれがわかったのかのように 「明日は待ち時間が短くなるようにいたしますので……」 と頭を下げた。 私は退室するためにドアノブに手をかけた 「そうしていただけるととても――」 『美しいんだ』 「――!?」 私が窓の向こうを見ると、相変わらず地面を見たままの男が、口だけを動かして話をしていた。 私は急いで窓の前に向かい、退室しかけていたスーツの男に怒鳴るようにマイクから指示を出した。 『事件の話か!?』 スーツの男は急いで彼の前に向かう。 「事件の話かい?」 『美しい……とても……そうだ……彼女』 男はそれには答えない。体や、顔を動かしたりしてはせず、ただ思ったことを口にしているようだ。しかしその表情は先程のそれとは違っていた。その顔はそう、口元を吊り上げ、目を軽く細めて、ひきつるかのように………歓喜の表情にゆがんでいたのだ。 『ミロのビーナス……だ』 ……ビーナス? あの、半裸の大理石像か? 腕がない? 「どういうこと、かな?」 スーツの男は彼をなるべく刺激しないようにゆっくりとした調子で話しかけた。 『美しい……腕がない……。ただ、それだけで…まるで人間という愚像をすべて打ち崩すかのような幻想的な姿になった彼女……なんて美しいんだ……』 男はさらに口元をゆがめた。 『そう……あの姿が私を恍惚とさせる……。あの姿が……全ての者に、全ての欲望を……お与えになる……ただ、彼女の美しい姿に……腕がないことが加わっただけで……私に、欲望を抑制せよという……制圧すら行わない……女神だ……本当の……女神なんだ……』 「…………」 スーツの男はどう答えればいいのか困ったように眉を寄せた。私だって眉を寄せたい気分だ。いったい、この男は何を言っているのだろうか。ミロのビーナス……それのために……? 『わからないのか……』 窓の向こうの男は、今度は嘲笑を含めた笑顔を作った。 『そうだろう、お前達にはわからないだろう? 女神は、誰にでも微笑むのに、お前達にはわからない……。哀れなものだ……』 「なにが、私達にはわからないのかな?」 スーツの男の言葉に男は今度はぶつぶつとつぶやくように口を開いた。 『腕……だよ』 「腕?」 『……過去、何人もの者達が彼女に魅せられて……その欠けてしまった腕がなんなのかを 知りたがった……ルイ18世も彼女に腕を与えようとしたが』 ククッと笑う。 『奴の下へ現れた彫刻家達は王を満足させることができなかった……当たり前だ。ビーナスは、その者の欲望を、人間の象徴的な、概念的な「見えないはずの腕」で見せてくれる……』 「…………欲望……」 『……そうだ。……彫刻家達の欲望は……ルイとは違う……そうだろう? ……お前の欲望と、俺の欲望……違うだろう?」 ……何を言っているのか、私にはだんだんと理解することができてきていた。そうか、だから彼は、いや、むしろだからこそ彼は…… 「…………難解すぎてわからないな」 『ビーナスは……「腕がない」ことで……万人に愛される女神となったのだ……』 私はマイクを引き寄せた。 『つまり、こういうことか?』 スーツの男が「え?」と言うようにマジックミラー越しの私を見た。 『君はその万人に愛される存在、「ミロのビーナス」に近づくために』 私は、息を吐き出した。それは恐怖なのか、それとも畏怖なのか、私にはわからなかったが、そんなことはわからなくても私の背には汗が流れ出ていた。 そして、体を動かさない男を見た。彼はいつの間にか、私を見ていた。どこにいるのかわからないはずなのに、しっかりと私の目を見据えていた。 笑っていた。 『…………ビーナスに近づくために、「自らの腕を切り落とした」。そうなんだね』 男はおめでとうとでも言うかのように体を大きくのけぞらせた。本来なら、そのまま拍手をするのが正しいのだろうが、彼はそれをしなかった。 彼には腕がなかった。 『そうだよ。お前達警察は一生懸命俺の腕を切り落とした奴を探していたんだな? 残念だったな。俺は、俺の意思で腕を切り落としたんだ…………ほら、見てくれ』 彼は笑顔でマジックミラーに近寄ってきた。満面の笑顔で。 『美しいだろ?』 痛々しく、無理やり引きちぎったかのような跡のある腕を、私に見せ付けていた。 ある昼下がり、その事件は起きた。 腕が何者かによって『チェーンソウで切られた後、引きちぎられた』男が、彼の妻によって発見されたのだ。男はすぐさま病院に運ばれて一命を取り留めたが、腕は元には戻らなかった。 なぜなら腕は、彼の家にあるビーナス像に打ち付けられていたからだ。 彼は事件のショックで精神に異常をきたし、精神病院に入院した。そう事件の調書には書かれていた。 今となって、私は思う。 いったい彼の『欲望』とはどっちだったのだろうか。 腕をなくし、万人に愛されることだったのか 自らの腕を与えた『ビーナス』だったのか 私にはわからなかった。 しかし、この事件で私はひどい皮肉を感じてしまった。いや、もしかしたら……これが真実なのかもしれない。 欲望を自らの腕に乗せてかなえてくれるというビーナス。腕をなくした『あの男』は「美しい」と言っていたが……しかし私は思うのだ。 それこそ『悪魔の魅力』ではないのかと。 なぜなら欲望は人それぞれ。『美しさ』も人それぞれ。私は決して、腕をなくした奴の姿が『美しい』などと思わなかったのだから。 ▼ 「美しい…………美しい……」 ある美術館。女が『モナ・リザの微笑み』を見つめながらつぶやいた。 「美しい…………」 そして女はそれの説明書きを見つめた。 『……であって、「モナ・リザの微笑み」が万人に愛される一つの仮説に……』 そして最後まで読んだ女は自分の顔をやさしく包み込んだ。 そしてそのまま、閉館まで見続けると、何かを覚悟したかのようにうなずいて、去っていった。 『……であって、「モナ・リザの微笑み」が万人に愛される一つの仮説に、面白いものがあります。それは、「モナ・リザ」の顔が左右で絶妙に、しかし確実に違いがあるということです。そうすることによって、均等や対象が目立つ芸術の世界になれた人が、左右の違いに魅了されると言われています。 さあ、あなたも あなたも左右違う顔にしてみましょう。 もしかしたら、万人に愛される存在になるかもしれませんよ……』 |