父さんの話だ。
高校二年生の俺。父さんは俺が高校を卒業すると同時に会社を辞める。五十八だ。父さんは母さんと結婚してから、かなり経って姉ちゃんと俺を見たことになる。
だから父さんと俺は、ちょっと年が離れすぎてる。それが原因かどうかはわからないが、今は会話すら億劫だ。
子供の頃は違ったのにな。
父さんは昔から俺と姉ちゃんことを連れまわしていた。必ず休みになると俺と姉ちゃんは父さんに山に連れて行ってもらっていた。
平日でも朝六時に起きる健康的な親父だった父さんは、出発の朝は小さな俺と一緒に、旅番組を見て朝飯を食べていた。子供の俺には何が面白いのかわからなかったが、父さんが見るのはつまらなくてもまぁ、しょうがないか。という感じで見ていた。
なんだかんだで、俺は父さんとは感覚が合わなかったのだと思う。
そんな時、姉ちゃんは母さんと一緒にぐーすかぴーすかとのん気に寝ている。そんな二人を父さんは「ブタだ。居眠りブタだ」だとよくわからないネタで呼んでいた。今でも思う。面白くない。でも、俺は笑ってた思い出がある。
なぜだろう? わからない。
朝ごはんを一緒に食べる。こぼすな、テレビ見るな、姿勢を正せ、箸の持ち方、目線をまっすぐ……と口うるさい父さんと食事をするのは好きじゃなかった。でも、一緒に食べていた。
朝飯は美味かった。会話も無い食事だったが、すごい美味かった。
ポンコツの車は朝九時には自宅前の駐車場を飛び出る。といってもそれは最初だけ。あとは恐ろしいほどの安全運転。ずんぐりむっくり、ゆっくり進む。
お昼ごろには山につく。といっても、いつも同じところに行くわけじゃない。適当に、のんびりと走り回り、そのうちたどり着く山に、父さんは俺たちを降ろす。目的というものを作らない、『それは旅だ』と父さんは言っていた。
山の空気は美味いな、涼しいな、気持ちいいだろう? 空が青いぞ、見ろ、ふくろうの看板だ、リスの人形が落ちてる、遺跡があるらしいぞ、この場所には昔お姫様がいて、お殿様はその時、歩けば強くなれるぞ、忍者はこういう階段を、これは白樺といって、虫は殺しちゃダメだ、猫がいるぞ、人が作ってないお星様は綺麗だろ? ……
うるさい親父だったと思う。家では無口の癖をして、こういうときだけ妙におしゃべりになる。勢いで全く知らない農家のおばちゃんにも話しかけたりもする。変な人だと思う。
と今では文句を言う俺も、なんだかんだで姉ちゃんとそれに合わせて
空気っておいしいの? 涼しいね。気持ちいいな。雲がないよ? ふくろうさんだ。リスさん可愛そう、いせきって何? お姫様かっこいい! お殿様悪い人〜、強くなってどうするの? 忍者ってすごい! いいにおいがする。虫さん可愛そうだから逃がす。にゃんにゃんおいで、お山の星はいっぱいだね……
……思えば俺たちもよく喋る子供だったと思う。
春は山に登って空を見て、夏は山に行って川で泳いで、秋は山に行って紅葉を見て、冬は山に行って雪を見て
なんだよ父さん、俺の思い出、そんなのばっかだよ。
車から降りた父さんが、ただただ真っ青な空を見上げるその横で、父さんを見上げる俺。
『山の空気は美味いな』『空気っておいしいの?』
子供の頃の俺の姿は、そんな父さんと俺ばっかりだ。
ある日姉ちゃんは、その休みの小旅行には来なかった。
代わりに友達の家に遊びに行っていた。それを聞いた父さんは「そうか、それじゃあ、今度は来れるのか」と聞いた。姉ちゃんは首を振った。それに父さんは「そうか」とだけ答えた。
その日から俺は、いつも後ろで姉ちゃんと二人で座っているだけだった俺は、いつの間にか俺は親父の横で助手席に座り、父さんの寂しそうな顔を覗いていた。車を運転しながら、俺に話しかけながら、いつもは姉ちゃんと二人で分けていたジュースを父さんと分け合いながら、その寂しそうな顔をのぞいていた。
子供ながらに鬱屈していた。この寂しい顔は、俺の力ではなんともならない。あの寂しい顔は、きっと元に戻すことはできないのだ。
寂しそうな顔は、いつの時でも忘れられない。あの顔は、忘れられない。
あの顔は
それでも父さんは俺を連れまわした。ただ、山には行かなくなった。
ちょっと離れた街に行き、ぶらついて、父さんと夕飯の話をしたり、あの頃と変わらずゆったりとした車の中で、ラジオの音に耳を傾ける。のんびりと青くない街の空を見上げたり、僅かに日の傾いた二時ごろの光を浴びていた。
そして俺は、いつの間にか半日になった小旅行のお陰で、友達とよく遊んだ。野球をしたり、ゲームをしたり、とにかく、俺は休みを『父さん以外』で遊んだ。ずっと、飽きずに遊んでいた。
俺は、あの時やっと、『俺』になったのだと思う。
親父の寂しそうな顔、隣町のつまらない風景。友達と遊ぶ笑顔の俺、ゲームの中の主人公。
あの時、あれが俺のすべてだったのだと思う。チンケだとか、肌に合わないとか、そう言う人もいるだろうけど、あの時、俺はやっと、自分を見つけられたのだと思う。
それは俺が、いつも腹の奥底に押し込んだ思い出。俺を作り上げた、僅かに傾いた、二時ごろの昼の思い出。
今、家にいるのは母さんと姉ちゃん、そして俺。父さんは単身赴任。ご苦労さん。
高校二年生になった俺は、朝六時に起きると、一人で自分の作ったマズイ朝飯を食べる。だらしなく座ってテレビを見て、時には茶碗をひっくり返す。
姉ちゃんと母さんは二人で飯を食う。それを横目に、数分間の食事を終えて、俺は八時には家を出る。のんびりなんかしてられない。
家を出るとあくびをし、今日ある授業を思い出し、ため息をつき、しょうがないしょうがないと歩き出す。
自転車置き場で自分の自転車を手に取ると、ペダルを踏んであくび交じりに走り出す。
遅刻して学校に着けば友達と流行のファッションや芸能人の名前を挙げて、笑い合う。
授業が始れば、あくせくとノートをとり、うげげ、修正液無いか? とかのさばる。
授業が終わると部活へ向かい、唯一といってもいい特技を死ぬほど頑張る。
それが終われば俺は自転車をこいで家に向かい、母さんと二言三言口にして、また予備校へと出かけていく。
家に帰れば十一時。高校生はしんどいなぁと引きっぱなしの布団に倒れて、そのままドロのように眠る。遅くまでバイトの姉ちゃんと、深夜パートの母さん。その家には誰もいない。
そうやって、俺は今、一度として親父を必要とせずに生きている。
時たま来る手紙も、返すことはない。
そうだ。俺は『俺』として生きている。
もっと詳しく教えてやろうか?
高校二年生になった俺は、朝六時に起きると、一人で自分の作ったマズイ飯を食べる。だらしなく座ってテレビを見て、時には茶碗をひっくり返す。
見る番組は旅番組だ
姉ちゃんと母さんは二人で飯を食う。それを横目に、数分間の食事を終えて、俺は八時には家を出る。のんびりなんかしてられない。
「居眠りブタめ……」と毒づく俺を、二人は不思議そうに見てるが、それは無視。
家を出るとあくびをし、今日ある授業を思い出し、ため息をつき、しょうがないしょうがないと歩き出す。
しょうがない、しょうがない
だって、空は青いじゃないか
遅刻して学校に着けば友達と流行のファッションや芸能人の名前を挙げて、笑い合う。
遅刻の理由が「にゃんにゃんと遊んだ」ことは内緒だけどな
授業が始れば、あくせくとノートをとり、うげげ、修正液無いか? とかのさばる。
ふと、時計を見上げて、「二時か」と呟く俺に、友達は「修正液、要らないのか?」と差し出してくれる。
僅かに傾いた日の中で、俺は「サンキュ」とそいつをうけとる
授業が終わると部活へ向かい、唯一といってもいい特技を死ぬほど頑張る。
入った部活は剣道部。
あのお姫様、最後は刀で、勇敢に戦ったんだって
それが終われば俺は自転車をこいで家に向かい、母さんと二言三言口にして、また予備校へと出かけていく。
夜のイルミネーションが綺麗だ。たまにゃ人工物も、いいもんだろ?
家に帰れば十一時。高校生はしんどいなぁと引きっぱなしの布団に倒れて、そのままドロのように眠る。バイトの姉ちゃんとパートの母さん。その家には誰もいない。
だから俺は、そこでやっと「疲れた」「辛い」「悔しい」「痛い」「うまくいかない」「味方がいねぇ」と呟く。
「寂しい」とも、呟くのだ。
父さんよ。
あなたの息子は、あなたの事が好きでも嫌いでもないですが、ちゃんとあなたの息子になってます。
いじめられたこともあったし、悔し涙を流したときもあった。
それ、話したこと無いけど、そのときも俺、父さんの息子でした。
寂しいときの表情が、父さんに似ていることに気がつきました。
不機嫌にモノを注意する時。あの声が、父さんの声そのものだと姉ちゃんに言われました。
暑いときも、寒いときも、辛いときも、悔しいときも
俺が見上げた空は、青いです。
雲ひとつ無い、あの、山の真っ青な空なんです。
ただ、ちょっとだけ
ちょっとだけ寂しいときは
あの、二時の、僅かに傾いた日が俺を見つめています。
だから俺はそういう時、やらなくちゃいけないこととか、信念に沿ったこととか、がんじがらめになっている周りのもの全部投げ捨てて、半日だけ隣町に行きます。
この空が青ければ、それで俺は頑張れる。あの空が青く輝けば、俺ずっと歩いていける。退屈なんかじゃない。意味が無いことなんかじゃない。俺がここで、空を見上げて、近道して離れていく仲間達を見つめることは、全然間違いなんかじゃない。
のんびりゆっくりの旅が楽しいってのは、父さんに教わったことです
ありがと、父さん。
退職したら、山に行こうぜ。
それでまた、あの空を見上げよう。
ほら見ろよ、今日もまた、空が青い。
青い。青い。青い……
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