■Prologue
暗い部屋の中にディスプレイの光が延々と輝き続けていた。
緑や、赤、黄色などの光も点滅している。だが音はほとんどしない。僅かなささやきと、身動きするためのカサカサという音が存在するだけだ。必要な音はそこに存在する人間のヘッドホンだけを通せばいいのだ。会話や、通信もそれで行われる。
人間達はズラリと椅子に座ってディスプレイに注視していた。
彼らはまるでディスプレイに話しかけるかのように、口を開いていた。その言葉を拾うのは彼らの装着しているヘッドフォンから伸びるマイク。
そこにその場所の存在意義を理解していない人間がいたとしたら、まるで各所で独り言を言っている人間がいるように感じただろう。
情報の機密性は、物理的には最高級と言っても過言ではないだろう。
ディスプレイに照らされて、薄ぼんやりと白く浮かび上がった人間の顔は、ひどく冷静だった。ただただ、ディスプレイにある情報を取得し、通信によってペンタゴンへ送ればいいのだ。
情報とは、と聞かれればその部屋にに存在している人間達は答えただろう。
軍事衛星からの情報だ。と
ここはアメリカ合衆国スパイ衛星傍受施設だ。
『衛星『アクE』より通信。ペンタゴン各局からの要請に従い、クウェート北部国境線の情報を取得』
ひとりがまた淡々と情報を取得した。かちゃかちゃと自分の前にあるコンソールを叩く。
ディスプレイには写真が映し出されていた。それは通信の通り、クウェート国境沿いの映像だ。
「…………」
かちかちゃといつものようにコンソールを叩く。その指流れは滑らかで、何度もその動かし方を行ったことを言外に物語っていた。
そして淡々と映像を送り出そうとした彼は、ピクリと体を動かした。指を止める。
そこにはいつもは無いはずの『それ』が映し出されていた。
「……ウソだろ」
彼は驚愕の表情でヘッドフォンをはずした。周りの仲間達が久しぶりに聞いた感情的なその行動と言葉を耳にし、つぶやいた彼へと目を向けた。
そのうちの一人が大仰なため息と共に自分のディスプレイから腰を上げる。髯を豊かに蓄え、肉付きもよい男だ。
「またお前か、いい加減仕事に慣れろよ」
驚いたまま動かない彼に、情報局のチーフである男が呆れたように言葉をかけた。
前から使えない新人だと思っていたが……もうそろそろこの仕事にはなれて欲しいものだ。
この仕事は国家の機密に関するものも多い。、年こういった新人を慣れさせることに気を使う。重要な秘密を知ったストレスで自殺を図るような人間もいるくらいだ。それでも三ヶ月もしたら落ち着くはずなのだが。
チーフは彼の肩に手を置いた
「なあバズ、スパイ衛星の写真にいちいちビビッてたら仕事にならないといつも言っているだろう」
彼の言葉に反応した新人の男ははっとしたようにいきなり振り返った。
「チーフ!!」
立ち上がって、チーフの肩を掴む。
「――うわっ!?」
「急いで統括本部に連絡してください! 緊急事態なんです!」
「だ、だからそういったことはいつもの事じゃ……」
「いつもこんなことが起きてますか!」
興奮している彼に捕まれたままのチーフは、押さえつけられるようにディスプレイを見た。
そして彼自身も目を見開く。
▼
「なんだね。今度はどうした?」
暗い寝室の中で妻の横で話す彼は、初老ながらもしっかりとした声で電話に出た。
深夜二時だ。
妻にいきなりたたき起こされて出た電話の先では、バタバタと激しく走り回る音がしていた。
(……かなりまずいようだな)
嫌な予感を顔に出しながら、電話の先の彼の言葉に耳を傾けた。
『マズイことになりました……軍部のスパイ衛星がクウェート国境北部の異常を発見しました』
そしてやはり、懸案であったそれについての事だったことにさらに渋い顔をした。その表情に妻が肩を引っ張る。
妻に優しく笑いかけた後、誰にも気づかれないようなため息をつき、答えた。
「……そうか、わかった…具体的には?」
彼は受話器を持ちながらその報告を聞き、そして手に力をいれた。
……やはり聞くべきではなかった
―こうなると多国籍軍の投入は免れないだろう。
電話は慌ただしく過ぎていく音と共に、一方的に切られた。
―この国はまたも、争いへの道を突き進むこととなるのか。
そう思わざる得ない状況の中で彼は、切られた電話を横で待っていた妻に渡した。冷静に。
ベットから降りて、衣装ケースに閉まってあるいつもの礼服を手に取ると、すぐに着替えだした。
「……行かなければいけない様な事だったの?」
妻は心配そうにベットの上で彼に話しかける。
「いや、大したことじゃないんだ」
その彼女にまたも優しく笑いかけながら、彼はネクタイをとりだした。
―そうだ、大したことないさ。そんな、慌てる事など、何もない。
彼は笑顔で「すまないがネクタイを頼めるかな?」とおどける。
……内心を隠すのは長い官僚生活で覚えた事だ。罪悪感も、緊張もない。
妻は少し微笑んでから彼のネクタイに手を出した。
「……さあ、できたわよ」
「ああ……すまないね。……少し仕事が長引きそうだが、心配しないでくれ」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫さ」
電話の先で、誰かもわからない官僚はひどく感情的に話していた。
―『イラク軍が国境沿いに集結しています!』
「まさか私がそんな危険なところへ頭を突っ込むわけないじゃないか」
―『奴等戦争始める気ですよ!』
「そうよね」
妻は安心したように笑った。その表情からは別段隠した感情は無く、本心から安心しきっているようだった。
その表情に合わせて、彼も笑顔で妻に軽くキスをした。
「行ってくるよ」
彼はやはり、笑顔を妻に向けて玄関へと足を向けた。
妻はそんな彼に、出かけにいつも言う軽い冗談を思いつき、笑顔で言った。
「まさかあなたが戦場に行くわけじゃないもの」
彼は少し、笑うのを控えるしかなかった
1988年8月20日
イスラム原理主義国家イランとサッダーム・フセイン大統領独裁国家イラクとの、8年間に及ぶイラン・イラク戦争が一応の停戦を迎えた。
この戦争の結果、イラクは600億ドルもの膨大な戦時債務を抱えることとなり、経済の回復も遅れることとなった。
しかし、戦争中にアメリカ合衆国、ソビエト連邦などの大国や、ペルシャ湾岸のアラブ諸国に援助された軍事力は、イスラエルをのぞいた中東では最大でありつづけることとなる。
そんな中、サウジアラビア、クウェート両国が石油輸出国機構の割当量を超えた石油増産が行われた。石油の価格は急激に下がり、石油輸出によって何とか経済を保っていたイラク経済は大きく崩れることとなる。
イラクは必死の抗議を行うが、敗戦国である彼らに世界は冷たく、侮辱的な言葉さえも投げかれられるなど、完全に無視される傾向が世界に広がっていった。
そして同年7月27日。
クウェート北部国境にイラク機甲師団が集結しているところを米軍事衛星が発見した。
アメリカはこれを周辺アラブ国に通達したが、アラブ諸国はまるで相手にしなかった。
クウェートもそれに続き、一切の防衛体制をたてることは無く、7月31日の両国会談ではイラクを侮辱するかのような発言が目立つ。
そして1990年8月2日午前2時
戦車を中心とするイラク軍機甲師団はクウェートに侵攻を開始した。
米軍部、そして各国マスメディアはこれを「湾岸戦争」と呼び、有志多国籍軍を募り、イラク軍と前面戦争へ突入することとなる
後にこの流れは「必然であった」と称されることとなる。
憎しみが憎しみを呼ぶように、戦乱が戦乱を呼び続けることとなった。
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