■3
「…………」
俺は、生きていた。
「…………」
彼は、血だまりにのまれていた。
俺は握り締めていた、黒く生光る拳銃を投げ捨てると、それを木の床に放った。木床を敷き詰めた部屋はその鈍い音に満たされる。先程から続く、敵と味方の銃撃の音と混じって。
不意に力が抜け、膝が崩れ落ちる。ドン、という音と共に俺の意識は真っ白に飛んだ。嘘だろう?
嘘なんだろう?
「…………」
俺はそっと手を彼の頬に延ばすが、床に転がっている彼の、その頬はただ「冷たい」とだけしか伝えてこず、俺の体もその事実をぶるぶると小刻みに伝えて来るだけだった。
「……何故だ?」
震える声がのどから出てきたとき、俺は初めて戦争をしていて、『怖い』と感じた。
「……何故こうなる!! 何故なんだ!! どうして!?」
どうして俺達ばかり!!
「神よ!! あんたは俺にどうしろって言うんだ!? 俺達に、何を止めろって言うんだ! 何が正しいって言うんだ! 俺が、俺達が」
そこまで言って、俺は爆風に体を吹き飛ばされた。硬いコンクリの床に鼻頭を叩きつけらる。激しい空気の圧力に、俺の鼓膜は甲高い音に支配され、まったく役に立たなくなる。
「――ガッ!」
肺から衝撃で押し出された空気が俺の咽を鳴らす。身をよじりながら体中の痛みに必死に耐えた。
這いつくばったまま、巻き上がる砂のなかで目を凝らすと、民家の窓から、すぐ近くで爆発が起きていたんのがわかった。
さらに連なる爆発音。思わず体を丸める。
「……もう、始るのか……!?」
爆撃だった。鳴り響く空襲警報、敵味方入りまみれての兵士達の怒号、巻き上がる黒い砂、爆音、そして、爆撃機が唸るエンジン音。
「大尉!? 友軍機が俺達を爆撃してます!」
窓の横にあるドアからの声に振り返ると、そこには黒い肌を持つ曹長が息を荒げていた。
「俺達ごとここを吹っ飛ばす気です! 大尉、ここは持ちません!!」
彼は酷く慌てていた。土とすすに汚れた顔。
今考えると、そんな顔をしているのは『彼』だけではなかった。そうだ、
死が近づいた兵士達は皆そんな顔をしていたんじゃないのか。
「……そうか」
ぼんやりとした俺が搾り出した言葉など、それだけでしかなかった。
曹長は一瞬動きを止め、なにか不思議なものでも見るかのような目で俺をみた。いや、実際不思議に感じたのだろう。今や俺は死が近づいたのにもかかわらず、死になんの恐怖も抱いてはいない。
俺はぼんやりと部屋の隅にあった、割れた大きな三面鏡の破片に見入った。
「……そうか、ハハ、そうだったのか」
「た、大尉……?」
突然笑い出した俺に曹長はさらに体を硬直させる。眉を寄せ、世界の『異物』を、決して目に入れてはいけない『異物』を見たような、そんな顔をしていた。何がそんなにも不思議に感じるんだ? 曹長。
どこがそれほど異物に感じる? 俺か? 俺の気が狂ったとでも思ったのか?
いいや、それは違う。俺の精神は正常だ。
ほら、見てみろ、実に滑稽じゃないか。
鏡の中に写る俺の姿を。
鏡の中に写るお前の姿を。
土にまみれ、すすに汚れた俺たちの顔を。
そうだ、そうだったんだ
「『俺たちはここに来たときからもう、死ぬ運命だったんだ。だから俺たちの顔はこんなにも土にまみれて、すすに汚れているんだ』」
死ぬ奴がそんな顔をするんだと俺は長い戦いの中で知った。それは間違いじゃなかった。
鏡の中の俺は、土にまみれ、すすに汚れているのだから。
そうだ、俺は死ぬ。
ここまで続いてきた、長い長い『死の台本』に、やっと俺の名前が挙がって来た訳だ。
笑った顔のまま曹長をみると、彼は顔を引きつらせていた。かすれた声をあげる。
「大尉……しっかりしてください」
「しっかりしてるさ」
そうして答えた俺の顔を、また、爆風が殴りつけていった。座り込んでいた体がさらに吹き飛ばされ、回転しながら後ろを振り向くと、そこには壁。今度は部屋の奥にまで叩きつけられるだろう。
――あぁ
その瞬間。
曹長の体が、爆撃の衝撃でバラバラになったのを見た、その瞬間。
俺はその肉片を顔に付着させながら、思っていた。
――間違っていたのかなぁ
硬い壁に俺の体は叩きつけられた。内臓を直接革靴で蹴り上げられたような、吐き気ののし上がってくる鈍痛。それが背中から襲ってきて、俺は吐しゃ物をそこいら中に撒き散らす。
そして爆風が収まると、そのまま床に顔から叩き落された。鈍くも小気味よい音が内部から鼓膜を揺らし、その音で俺の鼻は折れたのだと認識した。
そして俺は自分の吐しゃ物と鼻から出した血のたまりに顔を力なくへばりつかせながら、最後の力を振り絞った。
口を、開く。
「なあ、ウィンターズ……どこだろうな……俺達、どこで間違ったんだろうな……」
俺は、笑った。暗い闇の底を覗き込みながら……
「(この作戦の本当の意味を、俺は伝えます)」
やっと、ラングシュメール地方最大の市民街『ケイブ』についた。
正確にはケイブについたのではなく、ケイブを攻めるためのポイント、つまりケイブ周辺に広がるうっそうとした森へと到着していた。
俺達は夜のうちに作った、無数の塹壕の中に身をおいている。行軍の間の衰えを取り戻すためだと、仲間には説明していた。
廃墟を占拠してから三日たっている。皆酷く疲れきっていた。疲れ、おののいた者は座り込みそうになるが、仲間のうちにはこの戦いが最後だと公言しながら歩くものがおり、彼らはその言葉に追い詰められるようにしながら歩いていた。
そして、誰かがそう呟くたび、俺は自分を責めていた。彼らを殺すのは、俺だ。俺が彼らに『死』を与えるのだ。
「……大尉」
同じ塹壕の中、横でタバコをくわえていたウィンターズが俺を全く見ずに呟いた。
俺はここに来てから半日の間、何度もそうしてきたように、頭を抱え込みながら返事を返した。
「なんだ」
「ここに来てもう八時間以上たちます。いい加減エヴたちも気がつき出しているでしょう」
俺は近くの塹壕に目を移す。そしてそこにいるであろう兵をまとめる軍曹、エヴの顔を思い出した。隊の仲間を強く意識し、激しい銃撃戦でも臆することなく突撃する、さらに部下にも信頼される絵に描いたような軍曹がエヴだ。そのいかつい顔が眉根を寄せる姿を容易に想像できることに、俺はウィンターズのいうとおりの事態になっているであろうということを感じさせられた。
「……そうだな」
「いずれわかります……そのときになったら手遅れでしょう。俺は言います」
「…………」
俺が答えないでいるとウィンターズはタバコをふき出して立ちあがった。塹壕から出てホフク前進で進み、比較的おおきな塹壕にとびこんでいく。
俺は顔を空に向けた。
木の上から朝露が落ちてきて、俺のヘルメットに当たる。カン、という小気味良い音がヘルメットの中に響いた。うっそうとした森の木はどんよりと曇った空をその緑の体で押し隠し、しかしむしろその行為は兵士達の心情を暗く、暗澹とさせていた。
俺は手探りでウィンターズが捨てたタバコを探り当てて口にくわえた。残り火を吸い込み、煙を吐き出す。
いったい、何をしているのだろう。
ここに来る前の俺はこんなことはしていなかったと思う。こんな事態になるまで放置などしなかった。もっと前に……そうだ、あの時。D中隊が半数にまで減ったあの降下作戦の後、あそこできっと進軍を止めたはずだ。
いったいいつ、俺は変わってしまったのだろう。
いや……前の俺の前の姿っていうのはなんだったか?
あれ? なんだろう。俺はいったい、『誰だったのだろう?』。どこで何をしていたどういう人物だったんだろう?
「…………」
俺はタバコをプッと吐き出した。そうだ。ここに来る前の俺はタバコなどすわなかった。
少し考えてみれば違ったところばかり浮かぶ。たしか俺は……
「大尉」
ふと考え込もうとしたとき、砂を飛ばし、ざらついた感触の音を立てながら塹壕に男が飛び込んできた。
「ウィンターズの言っていることは本当の事で?」
走ってきたらしく(焦り、というよりは敵に見つからないためか)息を荒々しくたてながら男……エヴは小声で言った。
「俺の考えでしかない」
俺はなるべく軽く答えたつもりだ。しかし
「……だとしたら大尉、あんたはこんな所じゃなくて本部で働いたほうがいい……きっと軍師として重宝されますよ。腐った上層部なんかより」
エヴはため息をつきながら呟き、そして俺と同じように空を見上げた。
「マジかよ……クソッ!」
地面を叩くエヴ。俺は彼に何を言うでもなく体を抱えた。時計を見つめる。
「作戦を今日の夜、マルイチマルマル時にはじめる。時計を合わせろ」
「まだ俺は行くとは言ってない」
俺がなんの感慨も無くエヴを見ると、エヴはいつの間にか俺を見ていた。
「ウィンターズが言ってた。行きたくない奴はいかなくていいと。あんたには言ってないみたいだが、今日中に逃げたい奴は逃げる算段になってるらしい」
「……そうか」
俺はまた空を見上げた。露がヘルメットに落ちて軽い音を立てる。
エヴは眉根を寄せた。
「驚かないんだな」
「予想はついてた」
「いいんで?」
「何が」
エヴは下から覗き込んだ。
「逃げちまうんですよ? このままだと誰もいなくなっちまう」
俺はうなずいた。そうだな、すすんで死にたい奴などここにはいない。
「ウィンターズの言うとおりの作戦放棄はできないでしょう。大尉、俺はあんたの意見に賛成だ。確かにウィンターズの言うことも一理あるが、あの甘ちゃん言うとおりにしてたら全員銃殺刑だからな」
エヴは周りを見渡すと、ヘルメットを深くかぶり顔をよせる。
「……身代わりが必要だ。何人かを助けるための、犠牲者が必要なんだ」
「…………」
「少なくともアンタの考えどおりなら作戦の重要課題はこさなくちゃならない。つまり敵の霍乱と陽動だ。ソレをこなせるだけの人員は集めなくちゃならない」
「つまりどういうことだ」
俺にはエヴが何を言いたいのかわからなかった。いったい何を言いにここまで来たんだエヴ?
その質問に答えるように、エヴはもう一度周りを見渡してささやいた。
「隊にこれ以上の混乱を呼ぶな。ウィンターズを止めるんだ。そうすれば俺たちで残る隊員は決められるし、逃がす奴は逃がすことができる」
「ウィンターズを止めることはできない」
俺はぴしゃりと言った。
「俺はアイツを止めることはできない。アイツとはもう、銃を向けられてまでことを話した」
「銃?」
エヴは目を見開く。予想通りの反応に俺は苦笑した。
「そうだよ。『俺はこのことを話します。もし止めるのであれば、引き金をひきます』……だと」
「……ウィンターズらしい。信じられないほど甘ちゃんな野朗だ」
エヴは吐き出すように言うと、握った銃……単発式、ボルトアクションの長銃だ……を肩に担いだ。
「……大尉。俺はね、『限界』なんですよ」
しばらくの沈黙の後、エヴは突然一言一言かみ締めるように呟いた。俺は目を細める。
「俺だって逃げたい。だがそうはいかない。仲間が死ぬか生きるかは俺にかかってる。大尉だってそうだろう?」
俺は別に首を縦に振ることも、横に振ることもしなかったがエヴはうなずいた。
「最悪、俺たちが戦うことに何の意味がないにしても、俺と大尉は仲間を生かすことだけは考えなくちゃいけない。……俺たちにとっては行楽の帰りは終わりじゃないわけだ。生きて帰らなくてはいけない。だから俺たちは、『何があっても』仲間を助ける最良の選択をしなくちゃならない。たとえ」
すっと息を吐き
「誰かを犠牲にしたとしても」
遠くでウィンターズたちが騒ぐ声が聞こえた。何かしらを言い合っているのかもしれない。この塹壕にいた緊張感が限界に達しているのか、その声は敵の近くにいるというのに隠そうとしている感がない。
その点、俺は随分冷静だった。
「……どういうことだ」
俺は特に取り乱すことなく、エヴの視線を見つめ返した。エヴは硬くなった表情を崩すことなく口を開く。
「そのままの意味です。俺たちはどんな犠牲を払ってでも、仲間達が生き残る最善の準備をしなくちゃならない。障害になるのなら犠牲だっていとわない。自分だって、『仲間に恐怖を伝染させる』仲間だって」
エヴはゆっくりと視線を後ろに向けた。視線の先には、少しだけ頭を出して仲間に話し続けるウィンターズの姿。
しばらく黙ったあと、抱えていた銃を見つめた。目を細める。
「おい、お前……」
エヴは俺を無視して、そっと体位を変える。正面にウィンターズが見えるようにすると、銃尻を肩に押し付け、照準をのぞく。
「おい!」
「違わないでしょう!」
エヴは小声で、しかし俺にははっきりと聞こえるように叫んだ。照準からは決して目を離さない。
「仲間を助けるための犠牲。俺もアンタも今までいくつも乗り越えてきたはずだ。それと今と、どう違う……!」
「何言って……」
「それとも訓練時代のお仲間は殺したくはないとでも? 他のやつらは見殺しにしたのに」
単発銃のボルトを引く。ガチャリという音があたりに響いた。あとは、引き金を引くだけで弾はウィンターズに飛んでいき、俺があのスナイパーを撃った時の様にウィンターズは脳を撒き散らして……そして死ぬ。
俺は唾を飲み込んだ。
そうだ。
いまや奴は仲間を脅かす存在でしかない。どうして俺は止めるんだ。今までだってそうしてきたじゃないか。少ない犠牲で、多くを助ける。そうしてきただろう。
だったらなぜ、止めるんだ。
止める必要などない。いつもの通りだ。ここで止めたらウィンターズについて仲間は撤退し、作戦は遂行できず、仲間は脱走兵として本国で銃殺刑は免れない。どちらにせよ、仲間は死ぬ。
だったら、ここでウィンターズを殺してでも俺はこの死の輪廻を止めるべきじゃないのか? 迷うな、迷うかことが一番危険だと今まで何人もの仲間を犠牲にして知ったんだ。
そうだ! 殺せ! 助けるべき人間はたくさんいる!
『いつものように』
エヴはゆっくりと照準をあわせる。ぶれないように、慎重に。
丸い手前の照準と、銃口上にある突起状の照準をあわせる。視線を遠くに向けると、ぼんやりとしていたウィンターズの顔がはっきりとする。相変わらず何かしらを部下に話し、儀直に仲間の話にうなずく。それを確認すると、その頭にゆっくりと照準を当てた。
息を吐き出す。
大きく、吸う。
昔、補充兵として送られてきたばかりだった頃、エヴはウィンターズに戦場で生き残るノウハウを教えてもらった。
『照準を合わせたら深呼吸しろ。一度だけだ、のんびりしている暇はない。吐いて、吸ったらそこで息を止めろ。そうすれば銃はもう動かなくなる……あとは何も考えるな、勝手に引き金が引かれる』
受け売りだがな、と笑ったウィンターズの横顔は、いまではもう浮かばなかった。
エヴはさらに吸う。息を止めるまでが、ウィンターズの最後のときだ。
隣に立っている大尉は何も言わない。最初に会ったときと同じように、ぼんやりとエヴとウィンターズを見比べるだけだ。……内心は別として。
ウッとエヴは息を引きつらせた。一瞬咳き込みそうになるが、何とか留める。
吸い込みすぎた。……そんなミスをするなんて思いもしなかった。やはり自分もウィンターズに思いいれなんてものをしているらしい。俺としたことが……随分と過去に引きつられる男らしい。非常な男として名を馳せたはずの俺が。
だが、それもこれで終わりだウィンターズ。
俺はいつものように、同じように、正しい行いをするさ。
エヴは引き金にかけた指に力がこもるのを感じた。すっとどこか虚無の空間に落ちていくように、ゆっくりと、自然に引き金は引かれ
カチャリと、引き金と金属のあたる音がした。
「……どうして」
「ウィンターズに撃つタイミングを教えたのは俺でな。当然お前の撃つタイミングだって把握してるわけだ」
体をそのままにして目だけを後ろにずらすと、大尉が疲れたようなその顔を、さらに疲れたように渋らせていた。その手に握られているのはエヴと同じ型の長銃。
「……随分じゃないですか」
「そうか? 俺はそうは思わないな……これ以上仲間を見殺しにはできなくてな」
「アンタは勝手な男だ。今までは好き勝手に見捨ててきたくせに、自分の仲間は殺させたくない……そんなことが許されると思っているのか」
「いいや、そうは思わないね。許されるなんて、俺たちには最初から『そんな権利はない』」
エヴは視線を前に戻した。
「もしここで俺が引き金を引いたら、間違いなくウィンターズは死にますよ」
「そうしない為にこうしてお前の頭に銃を向けてるんだが?」
「それでも俺が今まで死んだ仲間の為に引き金を引いたら、大尉はどうするんですか」
大尉は少しだけ押し黙ると、しかしすぐにその顔に笑みを浮かべた。
「そしたら、お前の言うとおり、俺たちだけで死ぬ奴を選ぼう。『いつものように』」
エヴは引き金に当てた指に、僅かに力をこめた。ふざけやがって。
ふざけやがって、ふざけやがってッ、ふざけやがって!、ふざけやがって!!
エヴは頭の中が殺意でいっぱいになっていった。今すぐ、この後ろで笑みを浮かべる男と、ふざけた甘ちゃんのウィンターズをぶち殺したくて仕方なかった。
「……そいつは楽しそうだ」
エヴは握っていた銃をおろした。フウッと小さく息を吐くと、ウィンターズに背を向けた。
「だが俺と大尉はどうも意見が合わないらしい。その時ももめそうだ」
「そうだな」
大尉は笑っていた顔を元に戻し、隊でも有名なあの『疲れた顔』をした。その顔をまた空に向ける。
「まだ、俺もお前も、死ぬには早い」
「…………」
大尉は銃を空に掲げ、ヘルメットを脱ぐと呟いた。
「然るべき時に、然るべき死を。ウィーアーサー」
ただの掛け声であるはずのそれは、エヴの目には何かしらの祈りに見えた。
この腐った世界のどこに、祈るべき場所があるのかは疑問だったが。
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