■2
その日はいつもより少し暑い日だった。
部活を終えた俺は防具を外し、面を外し、竹刀を大事に竹刀置き場に戻すと、少しだけため息をついた。体中に汗が流れ出ていて不快だが、この場でできることといえばせいぜい顔を拭くくらいのことだ。
流れ出る汗がアゴを伝うのを手ぬぐいで拭いて阻止する。少しだけさっぱりした。
一息ついてから周りを見ると、入り口近くで既に防具をしまい終えた部活仲間が、男女入り乱れて楽しげに口を開きあう姿が目に入った。俺は立ち上がるとその輪の中にするりと入っていく。何の違和感も無く。
話の内容はいつもの通りバカ騒ぎ。昨日のテレビ、この間の旅行、友達のこと、話していて、そして聞いていて面白い話しを俺たちは差し込む酷く暑い陽光の中で笑いながら話し合う。バカな学生らしいバカな喋り口調でゲラゲラ笑って、手を叩いて床を叩く。サル丸出しだ。でも、それでも俺たちはすごく楽しかった。ずっと笑ってた。笑っていたその間中、俺は別のことを考えていたが、それでも別段そのことを口に出すようなことはしなかった。そんな空気でもない。
話がひと段落すると、俺はまだ騒ぎ続けている仲間をほっぽって、武道場の傷ついた白い壁にもたれかかった。
離れた所からすすり泣きが聞こえる。女の子の、小さな悲しみの声だった。それが今、この瞬間が現実である証拠だ。
だけど、その泣き声は俺に現実を突きつけるようなことをすることは無く、ふわふわと、俺の周りの世界を夢のような薄靄で絡めるだけだった。
陽光の中、俺は彼女のほうを見なかった。ずっと壁にもたれて、天井の消えかけた電灯を見ていた。 カチカチと消えたりついたりを繰り返す電灯と、ムダにうるさいせみの声。俺は意味も無く「夏だな……」と呟いていた。でもそれも一瞬だ。しばらくするとまた、すすり泣きと笑い声のBGMが流れる。俺は電灯を見つめて続けていた。薄ぼんやりとした、夢のようなそこで。
その夢の中では、仲間の笑う声とすすり泣く声は少しづつ俺の中で形を変えていく。俺はなんとなくこの世界というものを達観した気分になった。笑い声と泣き声という不気味な相反する世界は、俺の今までの甘ったれた世界観を打ち崩すには十分な威力があった。
ああ、そうか、こういうものなのか。
だから、彼女は
狭い道場の床はワックスでピカピカと光っていたけど、俺の心はすりガラスの向こう側のようにぼんやりしていた。いつもどおりの日常に俺は嫌気がさしていた。もっとなにかあるだろう? ほかにもっと、言うことも、話すことも、悲しむべきことも、たくさんあるだろう?
でも俺は話が振られるとボキャブラリ全開にして笑った。俺の話に周りもやっぱり笑う。
そうして適当に話をあわせた後、俺はまた壁に背をあわせた。なんともいえない徒労感が俺を襲う。
「……想君? 想君いる?」
ふと、いつものあの声が聞こえた。笑いを止めて俺は入り口を出て玄関に向かう。
「まぁた先輩かよ……」
と部活仲間の一人が呟いたが、俺は聞こえないフリをした。全身からにじみ出る倦怠感が俺をいつもより根回しの効かない男にしていた。
玄関に出ると、いつものあの人が来ていた。うっすらと、自然で魅力的な笑みを浮かべて、外の日をあびた真っ黒なコンクリの地面と、時折通り過ぎる風に揺らぐ植木、蜃気楼の青い遠くの景色を背景にして、彼女は真っ白な夏服の制服を身にまとい、涼しげに立っていた。
「おはよ。……今日も頑張った?」
優しい声でそう言った風香先輩はあいも変わらず綺麗な人だった。知り合いでそんな人がいることに俺は結構な誇りを持っていた。自慢できる先輩、なんてのはなかなかいない。
俺はアゴを伝いそうになる汗を拭いながら冷静に答える。
「おはよ……ございます。昼過ぎて三時ですけどね。睡眠ボスの先輩と違っていつも通り、俺は頑張りました」
『いつも通り』を強調して言うと、風香先輩は少しだけ困ったように目じりを下げた。
一人の二年男子生徒と一人の三年女子生徒が武道場の前でたむろっている。
女子生徒の方はわずかな日陰である、本館と武道場を繋ぐ、渡り廊下の鉄製の壁によりかかり、道着姿の男子生徒はそれを見下ろすようにたったまま同じ壁にもたれている。
二年男子、とは想……つまり俺を指し、三年女子とはつまり風香先輩を指す。
風香先輩は少し汗をかきながら熱くそれを語っていた。
「……それでね、この世界にそんな境遇の人が何人いると思う? もちろん私達は違うよね、食事もあり、寝床もあって、家族もいる。友達が明日死ぬなんてことはないし……」
風香先輩は美人だ。
すごいグラマーってわけでもないけど、出てるところは出てるし、引っ込んでるところは引っ込んでる。顔は何とかってアイドルに似てるって言われるくらい端正で、一昔前の女みたいにムチャクチャに細い眉毛だったり化粧しすぎだったりしない。自然な感じに綺麗に整えられた眉毛とか、二重の目。綿みたいに柔らかそうで白い肌、ふっくらとした口元とか、そういうところが一々綺麗だった。
一年の頃は『あの先輩の胸がデカイ。夏服の制服を横から見たら綺麗に三角形だ』だの『目をつむったときの顔がエロい』だの『笑ったときの顔が可愛い』とか盛り上がるくらいの先輩だった。とにかく容姿について文句が出ることはこの先一生無いだろうな、とか思わせる人だった。
容姿は。
「……ちょっと、どこ見てるの」
胸ばっかり見ていた俺の視線はどうやら先輩の癪にさわったらしい。地面に軽い体育座りしていた先輩は俺を手で指示して座らせると、俺の頬を片手で引っ張り「び〜〜」とか言いながら不満そうに唇を尖らせた薄目で俺を非難する。
「ひはい、ひはい……ひいへひゃひはひいへひゃひひゃ」
「聞こえませン」
風香先輩はさらに不満そうに縦やら横やらグニグニと引っ張り倒す。つか、結構痛いなこれ……
むぅと膨れながら先輩は俺を下から覗き込む。
「どこ見てたの?」
「ふへ」
「…………」
「ひょっひょはひゃひへひゅひゃひゃひ」
はたして俺の言わんとする所は先輩に伝わったらしく。先輩は「び〜〜」を続け、横へ引っ張りながらパチンッと手を離した。
「イタ……怒ってますか?」
俺の言葉に先輩は
「……どこ、見てたの」
とふくれっ面を向けながら下から睨んできてた。俺はすこし後悔して
「いや、正直に言うとム」
といいかけて先輩の薄目に気がついて
「……カムカしてないかなって思って先輩の胃を見てたんです。ほら、暑いから、夏ばてとか……」
「…………」
ハハハとか乾いた笑いを流す俺に先輩は横目で流し目……というか流し睨みを利かせた。うん。怒ってるな……
先輩はその証拠に少々乱暴に制服のリボンをとって「別の意味でムカムカはするけどね」とか言いながらフンッって感じにそっぽを向いた。
「すみませんってば……そういうことに興味を持ち出す年頃なんですよ」
「普通、自分でそういうことって言わないよ」
ハハっと俺は笑い
「でも先輩、俺も先輩も普通の人じゃないでしょう?」
と他の奴には絶対に言えないようなことを口走った。
高校生という奴はとても子供で、でも大人ぶりたいよくわからない代物だ。もちろん俺も含めてだが……高校生という生き物は『個性的でいたい』けど『皆と決定的に違うのは嫌』という矛盾した欲望にも冷静に対処できないガキだ。だから聞きようにとっては『変人だ』とも取れる暴言ギリギリのこんな発言は他の仲間にはいえない。そういうのは見方によっては『イジメ』とも呼ばれるからだ。
「……まぁね」
だけど言われた先輩は凄く嬉しそうだった。少しだけ満足げに笑うと、声が出るのをを我慢できずに口元に指をおいてくすくすと笑う。
「ふふっ……私がこの日本に住む頭の悪い人たちと一緒なわけないじゃない」
笑いながらそんな救いようが無いような、絶望的なような、わけのわからないことを口走っておかしそうに笑う先輩は……別にお嬢様なわけじゃない。とうぜん温室で育てられたわけでも、箱に入れられてたわけでも、異世界から召還されて来たわけでもない。
彼女は、この学校始って以来の……変り種、だった。
「でね、私思うの。このまま日本の政治家とかがこの国を資本中心の社会制度で統一していったら、これから生まれてくる子供達は本当の目的って言うか、どうして生きているかとかの目標をなくしてしまうんじゃないかって」
まぁ、つまりそういうことだ。先輩が変り種ってのは、一年上がったらすぐにわかった。よく友達らしき人と話している姿は見かけるが、どうにも笑っている姿を見たことが無かったのだ。これはなんかおかしいな、とか思ってたら、事件は起った。
風香先輩は朝礼の時に『読書感想文コンクール』(高校生になってまで書くとは俺は思ってなかったのだが)入選で呼ばれた時があった。しかし何度呼ばれても頑として壇上にのぼらない。皆がざわついていると先輩は大声で一言
「あの校長は沖縄を反戦のプロパガンダとしかみてない!」
と叫んだのだ。当時二年上がりたてだった俺達は目をひん剥いたが、先輩の周りの三年生は『またかよ……』という表情をしてだんまりを決め込んでいた。どうも一年の頃からそんなことを繰り返していたらしい。
結局最後まで先輩は壇上に上がることはなかった。
よくよく考えてみれば沖縄を反戦のプロパガンダに見るのと壇上に上がるのとどういう接点があるのかさっぱりなのだが、あの時は純粋に「やべ……あの人かっこよすぎ!」と思わず口に出していた。それが先輩と俺との腐れ縁と言うやつに発展している。今では少し後悔もしてる。絶対に口には出さないが。
それ以後先輩は下級生から不思議ちゃんとか、電波とか真面目とかいろいろ言われている。俺もそう思う。この人はおかしい。明らかに普通の人間の価値観とずれているものがある。
俺の中では
変人
という素晴らしい別称が彼女にはつけられていた。これも絶対に言わないが。
「……でもお金がないと子供もなんつーか……あくせく働くことになるんじゃないですか? 結局」
そしてそんな先輩の友達である俺にもバカな男子生徒から『先輩ハンター』なる称号が与えられたりするわけだ。ただし女子生徒には率先して別称『変態』とも呼ばれる。どうも俺は風香先輩に言い寄るために政治やら国際問題やらを勉強したバカということになっているらしい。
別に政治も国際問題も勉強したわけじゃない。世の中のインテリな学校の生徒なんか新聞を朝読むのが趣味とかいうやつらだってごろごろいる。受験に失敗した俺が入った、こんな妙にバカなやつと妙に頭のいい奴が入り乱れた学校では多少珍しいかもしれないが。
ガキの頃から俺は『文字』が好きだった。文字ってのは不思議だった。ただの発音や記号の組み合わせなのに、こんなにも俺に楽しいことも、つらいことも、怖いことも教えてくれる。なんて不思議なんだろう! とか思ってた五歳の俺はもう漢字が読めた。ありがたいことに、
「……さすが俺の息子だ。ろくなDNAがわたってないと思ったが、俺の天才的な才能は引き継――」
等のことを口走る錯乱した親父によって、その頃の俺には朝から新聞が渡されることになっていた。
今は当然、どこぞの真理教がテロ起こしたとか、どこぞのビルが吹っ飛んだだのの話はお手の物。倫理感や事件背景考察、日本の少子化、複雑になったIT社会の規律性だのの問題だって一時間話せといわれりゃ話すことができる。やんないけど。
「ちがうよ……そうじゃない。私達って今何のために生活してるんだと思う? きっとわからないと思うよ」
「……あー……そうですね」
なんで先輩が俺に興味を持ったのかは知らない。初めての出会い(朝礼はぬくとして)はなかなかロマンティックな感じだったが、先輩はそんなことにときめきを感じるような正当派乙女なんかでは決してない。
ただなんとなく噂されているのは『話し相手が欲しいだけだ』という……なんというか、悪口だ。でも、的を得ているな、とも思う。
この人は、『人』に興味がないのだ。たぶん。
「ほら……わかんないでしょ?」
先輩は暑苦しい太陽に映えるような涼しい笑いを俺に向ける。いや、冷笑じゃないけど。なんだろうか。笑顔と暑さが混ざって、ちょうどいい心地よさにさせてくれるような、そんな笑顔だ。
すごくスーッとするような、感動するような、よくわからないその内心を悟られないように俺は呟く。
「……じゃあなんすか? 先輩にはわかるんすか。その、生きてる理由って」
「……さぁ、私にもわからない……かな?」
先輩はそのつややかな黒いロングの髪を、手ですきながら首をかしげた。ちょっと地面を見て、「うん、やっぱりわかんないや」ときっぱり言いぬいて顔をあげ、太陽をみると「あついねぇ……」とつぶやいた。
俺は呆れた。
武道場と空き地を挟んだ体育館から、バスケ部の奴等がニヤニヤしながらこっちを見ていた。俺は『あっちいけっつーの』を手で示しながら、自分の姿が見えないように武道場と本館を繋ぐ渡り廊下の手すりに腰掛けた。
「よくぬけぬけとそんなことが言えますね」
「そうかな? 理由って、私達にはまだわかんないことでしょう?」
先輩は俺の突然の行動に『?』を顔に貼り付けて俺を見上げた。俺はその顔を見ないでバランスをとる。
「……よっと……でも先輩の言う『資本主義がどうのこうので子供たちの目標が〜』って奴は、まるで『今の俺たちは生きる目標を見つけてる』みたいな感じに聞こえましたけど」
「あのね、目標を見つけてるんじゃないの。目標を見つけることができるんだと思うの」
そういうと先輩は立ち上がる。ぱっぱっとスカートの埃を払って俺を見た。
「……なんすか。帰るんすか?」
「ううん」
そういうと先輩は手すりに手をついてふわって感じ飛び上がり
「うわっ」
と驚く俺の隣に座った。
先輩はすました顔でスカートを整え始めるが俺はちょっと落ち着かない気分になる。いきなり何してんだ、この人……。なんだかしどろもどろになりなってしまう。
「な……なんすか……? 何してんすか?」
「いや、同じ目線だと話しやすいかなって思って」
先輩は驚いたりしどろもどろになったりと忙しい俺に驚く、という器用な真似を少しの間だけし、そしておかしそうにクスクス笑った。
「なに? ……ふふ、どうしたの? そんなにびっくりした?」
そういういたずらっぽい顔で見られると、普段「剣道は心理戦だ!」とか豪語している俺はなんとなくいたたまれない気持ちになり、地面のコンクリートを見て先輩から目をそらしてしまう。……なんだか分が悪い。
なんとか話題を変えようと普段ろくすっぽつかわない頭を回転させて先の話題を引っ張り出す。
「別に……えと、なんでしたっけ? 目標を……どうたらとか……」
しかし先輩はクスクス笑いをやめず、いや、むしろ悪化させ
「ビックリしたって言えば教えてあげるよ」
とかます。なに? サド? スキだな、そういうの。
俺はそれになんだか腹がたって……というのは建前で、横に座られてはなんとなく気恥ずかしいので、手すりから飛び降りて武道場の入り口へ向かう。
「……じゃあいいです。俺、片付けありますから」
俺は止めてくれることをちょっと期待してそう言ったが、先輩は
「……あぁ、そうなんだ。じゃ、しょうがないね」
とあっさり手を振った。
……なんだよ。チキショ。
俺は少しだけ進んでから舌打ちして振り返る。
「……味気ない人ですね」
「じゃあ、味のある言葉言ってあげようか?」
ふふ、と先輩は笑う。風が通り過ぎ、先輩の髪をさらさらと揺らした。いちいち鬱陶しいくらい優雅な人だ、とか思いながら無視して帰ろうとすると、武道場の中から部活仲間数人がかばん片手に顔を出した。そのうちの一人の男が俺に気づと、ポケットから鍵を出して、靴を履くついでに俺に手渡した。
「あ、俺らで最後だから、お前施錠頼むわ」
「げ……マジかよ。めんどくせ……」
俺が大げさに顔をゆがめると、そいつはハハハと笑い
「頼んだぜ」
とさっさと他の仲間とともに出て行ってしまった。
「それでそいつさぁ……」「マジかよ!? すげぇわらえるんすけど!」「ありえなくない? 私マジムカついてさ……」「んで、そのとき芸人のあいつがさぁ……」
楽しそうに話すそいつらが自転車をこいでいく姿を見送る。俺はさっきまでのあのBGMのことを思い出した。
あの、すすり泣きの入る、悲しい、いつもの光景。
「あぁいう感じがいいのかな? 女の子って」
ぼんやりと固まっていると後ろから声をかけられた。俺は振り向かずに玄関に引っ張り出されていた(誰か気の利く部活仲間が放り出したのだろう)荷物を整理する。
「……なんスか、帰ってないんですか」
しかしそんな俺のちょっと意地の悪い反抗も先輩は見事にすり抜け
「ねえ、どうなの?」
と噴出しそうになるのをこらえているようだった。いったいなにがそんなに面白いんだか……この人は微笑みも含めると俺に会うときはいつも笑ってる気がする。癖なのか、意識してやっているのか。出会う前なんて一度として笑った顔を見たことなかったのに。
「別に……それぞれですよ。もういいですから、議論がないなら俺に用も無いんでしょう? しっしっ」
俺が手をひらひらさせてそういうと、先輩は黙った。ニコニコしたまま口を開かず、俺に背を向けると太陽をまぶしそうにのぞいた。手で目に日陰を作る。何を思ってるのかは知らないが、のんびりするのはいいことだ。何しろ邪魔されないし。笑われない。
俺はやっと訪れた安息にため息をつくと、荷物をまとめ始める。幸いそれほど多い荷物ではなく、肩掛けバック一つにあっさりまとまった。だいたい十分程度の間か。
その間先輩は動かなかった。
武道場をぬける。ドアを施錠して、まだまぶしそうに太陽を見る先輩に
「俺、帰ります」
と短く挨拶するとさっさと背を向けた。
端から見たらもしかしたら冷たいように感じたかもしれないが、風香先輩はなんというか、とにかく自由な人で、他人なんか自分と比べたらそれほど価値がないと思ってる変な人だったから、その時の俺の考えでは「先輩は今俺のこと目に入れてねえんだろうな」とか思っていて大した問題じゃないと思っていた。
事実、そうやってあっさりと分かれることは俺達のルールみたいなものだった。長々としない。だらだらしない。キッチリとした別れをする。そういうのがなんだか俺達をすっきりとした仲にしているのだと俺は感じていた。
「ねぇ」
しかし慣例に反して風香先輩は俺を引き止めた。
俺がその小さな声に。聞き間違いかとも思えるその小さな呼び声に、何の気なしに振り返ったその瞬間。一瞬だけだったが、先輩の目が俺に移っていた。
少しも笑ってない、何も感情を込めていないような、力の無い目だった。
俺はその先の人生でその瞳を忘れることは無かった。どこまでも黒い。黒い、何もない、何も見えていないような、塗りつぶされたような黒い瞳。
俺が言葉に詰まっていると、先輩はすぐに太陽に目を戻した。まぶしそうに見つめて、そして楽しそうに口元をゆがませる。
「死んだんだってね。後輩君」
先輩はその表情のまま、楽しげに呟いた。
俺はその瞬間、自分の瞳の瞳孔が開かれたのがわかった。ギュコと液体が締め上げられるような音がして、俺の脳内に血が一気に集められる音を聞いた。
「……ええ、心不全だそうです」
でも俺は冷静に答えた。怒鳴り散らすことも、泣くこともない。ただ、淡々と。
「そっか」
先輩は笑っていた。
先輩はニコッと、笑みをさらに強くした。力強いんじゃない。空気に馴染むようにうっすらとしていたその笑いが、世界から浮き上がるような違和感の塊として脳内に焼き付けられたのだ。
「……悲しい?」
小首を傾げる先輩に俺は答えない。
先輩の綺麗に潤んだ目が、すうっと元に戻った。無表情。それが俺を優しく、温かく深みへ誘う。
俺はその目に飲み込まれるように見つめ返した……交錯する。
「うわぁ……雨だよ! 傘もってねぇ!」
どれだけの間そうやって見つめ合っていたのだろうか。周りの生徒達が騒ぎ出す音で俺はハッとし、周りを見渡す。
あれだけ暑く、刺すような日差しはいつの間にかどんよりと暗い雲に沈み、大粒の雫がコンクリートの黒い地面を激しく叩いていた。 俺達がいる渡り廊下はルーフ付きで、雨も僅かしか手を出せない場所だったから、幸い俺達は濡れずに済んでいた。湿ったような、ひんやりとした空気が鼻をくすぐる。
ふと、腕に柔らかい感触が絡み付いた。すぐにそれはギュッと柔らかく締め付けられる。沈黙が流れた。
「……今日はデートして、帰ろっか」
先輩の髪の匂いがふんわりと鼻につく。そっと覗き込むと、先輩の顔は元の優しい顔に戻っていた。
楽しそうに微笑む。今にもふきだしそうなくらいウキウキした声で話す。
「デート、どう?」
顔を上げようとした先輩から、うっと息を詰まらせて俺は目をそらした。なんだか頭がかゆくなって少しつめを立てる。
雨は激しさを増す。俺はその雨のように、バカみたいに、ただただ泣きまくれたらいいと思った。泣きたかった。声を上げて、心のそこから泣き叫びたかった。
それができないことが、それをしようとしないことが、どれだけ苦しいかなんて考えもしなかった自分に嫌気ばかりが差して、どうしようもなかった。
この世の中が、部活のように、戦ってすべてが解決するのならいいのに……
「……先輩」
「ん?」
疑問はあった。
何で笑っていたのか、何が楽しいのか、後輩が死んだことのどこが笑えるのか、なんで笑顔をやめたのか、何で今、そんなに楽しそうに俺に甘えるのか。
でもそんな疑問は浮かんでは消え、浮かんでは消え……
あの日のジッポの光のように、それは立ち消えになっていった。
結局口をついたのは
「胸、でかいっすね」
そんなセリフで、やっぱり先輩に殴られた。何も聞けなかった。ただ、痛いだけだった。
それでもそれがちょっぴり嬉しかったのは内緒だ。
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