■8
部活が終わった。
もう、泣き声も聞こえない。
相変わらず熱い空気と、陽光。ついでに防具やら面、小手なんかをつけるとその暑さは熱気に変わり、熱気は静かに俺たちの精神を蝕み、強い心を壊し、心の中の本当に弱い部分をさらそうとする。
俺は、その瞬間が好きだった。
確かに、すべてを見せるのは怖い。醜いだろう、恐ろしいだろう、よだれをたらし、汗を流して髪を振り乱す。それくらい醜くて汚い。それが人間の本質だ。
俺は、その瞬間が好きだった。
握り締めた竹刀だけが頼り。他には何も無い。敵を倒すまで、俺たちはずっと戦い続けなくてはならない。そして、勝利以外に道はない。もう一つの道は、敗北。
戦いのさなか、そのことに気がつく。心臓が収縮し、敗北への恐怖を打ち付けられる。いやだ! 負けたくない!
いつからだろう。こんなに弱くなってしまったのは。
「……クソ」
俺は誰もいなくなってしまった道場で、一人で呟いた。
――あいつって
――努力してますって感じ? アピールすんじゃねえっつーの
――偉そうに……
――強けりゃいいけどよ。半端ものじゃん。……ダセ
――この間の試合だって……
―― 一回戦負けだろ? 口だけじゃん
――だからアピールなんだって! アイツももてたいんだよ
――弱……
――強くなければ人間じゃ在りませんって? あいつ自身そんなに強くねぇじゃねえか
「――ッあああぁぁぁぁぁぁぁッ!」
左足で思いっきり体を押し出す。軽やかに体は数メートルを一瞬で飛び、突き出した竹刀は瞬時に軌道を変えて面を叩きつける。その間、コンマ0秒以下の世界。
竹の竹刀が、硬い鉄の人形に叩きつけられる、軽くて鋭い音が響いた。
すぐさま相手である打ち込み用人形から距離をとる。残心と呼ばれる、切ったという気合を表す行為。それと同時に相手からの追撃を防ぐという実践的な考えも含まれる重要な動きだ。ある程度距離をとったら、すぐさま振り返る。
そして息の切れそうな自分を奮い立たせて、さらに体を蹴りだす。
軽く、鋭い音。
「……うがぁッ! ふっ! せりゃァァァァァァァァッ!」
それが連続して響き、俺の気合もそれに続く。
咽が焼ける……空気を吸いたい……体が熱い……汗が不快だ……動かない、腕が動かない……声がかすれる……力が入らない……弱っていく、俺の心
ふざけんな
ふざけんなッ!
「……ッ! ぅがぁぁぁぁああああああああッ!!」
パシーンッという音が、俺の頭の中に響いた。
「……ふっ……ふっ……ふっい」
吐いた息が熱い。吸う息も熱い。汗が熱くて、体が焼ける。俺は数十分間撃ち続けていた体からようやく力を抜いて、膝を突いた。荒くなった息を整える。
「よ」
ふと、そこに声がかかる。後ろを見ると、入り口には人。
今日来たのは風香先輩じゃなかった。
「……よ。先輩」
と俺は面も外さずに応える。
「敬語、使い方教えた気がするんだけどな」 と、条先輩は方眉を上げてかえした。
例え練習が終わっても何かなきゃ(要は風香先輩やら空やらが乱入してこなければ)とりあえず気が済むまで練習は続けるのが俺の部活だ。ちなみにこれは条先輩から引き継いものでもある。
「一人の練習はきついだろ?」
条先輩は道場の端っこで文庫本を開きながら呟いた。俺もその横で疲れた体を弛緩させてだらけきっていた。両手をたらし、足を放り出す。背中を壁に貼り付けて、体重をそこに全部任せる。
俺の頭の中にあるのは昨日の風香先輩だ。
――私はこれで我慢してあげる
――頑張ってね
(やばいなぁ……すげえ可愛かった……)
はぁ、とため息をつき、俺はまた考える。
――最っ低ですね!
あいつ誘わなくちゃいけないんだよなぁ……つってもどうすればいいんだか……
「……別に。そんなことないっすよ」
「そうか?」
「はい」
せみの鳴く声がうるさいのは誰のせいでもないが、それでも俺は誰かに対して殺意を抱かざるを得ない。それぐらいせみはみんみんとうるさく鳴いていた。ついでに暑い日差しは少しも手を休めることなく俺達をぐらぐらと煮詰めてくれる。
「今日も暑いっすね……」
うげぇ、と俺は寝転がった。木でできた床にべたぁと汗の付いた頬をへばりつけると、「……あぁ、床もあついじゃねえか」と悶絶する。ちくしょ……なんかバカにされてるみたいだ。人間様甘く見るなよこのヤロ
「……なんで床叩いてんだ?」
「別に」
「……あのさ」
条先輩は持っていた文庫本から目を離すと、俺に向き直る。改まってなんですか?
「暑いなら、プール行けば?」
「……え?」
俺は一瞬誰が俺に話しかけてきたのだろうと回りを見渡してしまう。いぶかしげに目を細める俺に、条先輩は繰り返す。
「暑いならプール、行けば?」
「いや、そこに『え?』じゃねえよ」
俺は間髪いれずに突っ込むと、先輩に向けた目をさらに細めた。
「なんで棒読みなんですか?」
そうなのだ。「暑いならプール行けば」この一文を先輩は何の抑揚もなしに読みきっていたのだ。機械音だと思って携帯へ目を向けた俺がバカなのか、それともなぜか苦笑いで「演技向いてないな」とつぶやく先輩が変なのか。
「いや、他意はないよ。ただ純粋にプールに行ったらどうかなって」
「ウソつけよ。今演技って言ったじゃねえかよ」
俺の苛立ち紛れの呟きに条先輩は困ったようにメガネを押し上げる。はははと笑いだし、最後に『はぁ……』で締める。何やってんだこの人。
「……正直に言うとね、俺、女の子に弱いんだ」
「……はぁ。まぁそれに関しては俺も文句がつけれませんけど」
気のない返事で返す俺。
「それで、今日相沢さんに会ったんだよ」
「相沢さん? ……あぁ、風香先輩」
なんだかいつも風香先輩と呼んでいるので、いきなり名字とかだとわからなくなる。
俺の頭の悪い発言にも先輩は『はぁ……』と「うん……」を混ぜたような言葉を発しながら頷いた。
「それで、相沢さん教室じゃいつもは俺に話しかけないのに、今日だけ女の子十二人連れてきてさ」
「……十二人ですか」
それは圧巻だったろう。
「うん、それで『今日想クンが暑そうだったら、プールに連れてってあげて』って……。俺が『いや、俺は今日夏季学習だから』って断ろうとしたら『でも無理じゃないでしょ』って……」
そういうと条先輩ははぁ、とまたもため息をついた。膝を抱え込み、脱力する。
「……え? それで終わりですか」
「そうだ」
「いや、そうだって言うか……」
そんだけかよ。と言わざるをえない(言ってないが)。今の話のどの辺りがため息をつかなきゃならないような事態なのか。
「……まぁ、現場にいなきゃわからないよ」
「はぁ」
どんな魔力だ。それは。
しかしなんでプールなのだろうか。プールは武道場を出て体育館を横切り、運動場をまたいだその先にある。……そこに到達するまでが暑いし、第一プールまで行って泳げるわけじゃない。
「なんかムダに暑そうだし、なにかしらの陰謀がありそうなんで辞退します」
「……いや、俺の顔を立てると思って」
「嫌だっつーの」
俺はだれていた体を起こすと武道場の入り口兼出口へ向かう。水のみ場へ行くつもりだ。夏の間でも冷たく冷やされた水が出るウォータークーラーなる長方形の物体がこの学校にはいくつか設置されている。おかげで夏の間も安心して部活を続けられるわけだ。立ち上がった俺に、条先輩は慌ててあわせる。
「ちょ、待てよ」
「キムタクのまねされてもダメなもんはダメです」
「真似してない!」
条先輩はしつこく俺の後ろに回り、肩に手を回すと「ほら、きっと水の近くだから涼しいよ」「あそこ日陰もいっぱいあるんだよ」「屋上よりずっとすずしい」「ジュースおごるから……」「夕飯はその思い出と共に一緒に食べようじゃないか……」「もちろんおごりで……」
俺は手を乱暴に外す。
「嫌だっつーの。後半はプール関係ないし」
「頼むよ……ホントッ」
ウォータークーラーから出る水をコップについで飲む俺に、条先輩はパンッと両手をあわせた。
俺はいいかげんしつこさにため息をついた。
「あのですね……」
「……それでどうかな、俺って、風香と不釣合い?」
俺は含んでいた水を噴いた。
「うわっ!? 何するんだよ!?」
豪快にかけられた先輩は慌てて飛びすさるが、俺はそれを見てなかった。
「……風香……先輩?」
声は小さく、聞き取りにくいものだったが、はっきりと俺の耳に残った。俺は少し目が悪くコンタクトをしているが、その代わり耳はかなりいいほうだ。聞き間違いじゃない。
さっと辺りを見渡す。ここは特活棟と武道場を結ぶ渡り廊下。廊下の周りは植樹や壁で見えない。
「あ、想。どこ行くんだ」
俺は走り出した。なんだかよくわからないが、気になることは気になる。しつこくも俺は体育会系の人間なので、考えるよりも先に体を動かしたほうがすっきりするのだ。
廊下を走り、体育館をこえて武道場に引き返す。三時の日差しは走っている俺にも容赦が無かったが、この際それは無視だ。無視。
「……なんか口利いてくれないと、わからないんですけど」
「…………」
いた。
さっきは全く気がつかなかったが、武道場の真横、少し陰になっている空き地で、男と一緒に風香先輩がいた。ささっと体育館の壁に隠れる。この辺り、ミリタリー好き(世ではマニアとも言う奴がいるが)の血が騒ぐので完璧な隠れ具合だ。
「いいならいいって言えよ。わからないって言ってるのに」
「…………」
…………
なんだか不穏な空気だ。風香先輩より少し背の低い茶髪少年はまるで睨むように風香先輩を下から覗いていた。風香先輩は……
「……おいおい」
泣きそうなりながら身を縮めていた。体を片腕で抱きしめるようにしながら、頬を高潮させる。
……見たことが無い風香先輩だった。
「あのさ……早く言ってくれよ。もう二十分も経ってるんだけど」
先輩はその言葉に、ビクリと体を動かした。
「おい! お前俺の服どうするんだ!? 昨日クリーニング出したば――」
バキッ
「ごはっ」
駆け寄ってきた条先輩に事情を説明する時間が惜しい。俺は少々うるさく怒鳴る先輩を殴る。倒れたのを見計らい、その口を思いっきり後ろから押さえて(ミリタリー好き)もう一度サッと隠れる。
「…………?」
男はいぶかしげにこちらを見ていたがそこは俺の特殊部隊譲りの隠蔽技能が生かされる(ミリタリー好き)。しばらく見続けていたが、すぐに興味をなくした。
「……なんだ? 告白?」
条先輩は俺に口を押さえられながらもごもごと喋った。俺はうんうん頷く。
風香先輩が男に告白されているのだ。あれは。
考えてみれば変人であろうがなんだろうが先輩は美人なのだ。それも学校創始以来と言われる。それだけに狙っている男もたくさんいる。あの男もその一人なのだろう。
と、男の顔を見る条先輩の顔が曇った。
「真壁……?」
眉を寄せ、メガネの下の目を細める。
「知り合いですか」
「何言ってるんだ」と先輩は目を離さずに呟いた。
「元剣道部だ」
え、と俺は男を見入る。茶髪……というかほとんど金になるまで染めてある髪は、相当きつくブリーチをかけたのだろう。顔立ちはいいが目つきは鋭く、首から提げたシルバーアクセもなんだか凶暴そうな見てくれをかもし出している。
「いましたっけ、あんな人」
「……俺を率先して嫌ってた奴だよ」
先輩を見ると、その顔はゆがんでいた。昔のことを……といっても数ヶ月前の話だが……思い出したのだろうか。ぎりっと歯を噛み締めて、男を睨む。
俺もその表情で思い出す。そういや出てきた。あの心底人を馬鹿にしたような顔。
『はぁ? こんな弱い高校来てお前ら何青春ぶってるの?』
……ムカつく野朗だ。
「相沢さん、怖がってるよ」
「…………」
まるで時間が早く過ぎてしまえといわんばかりに目をしっかりとつむり、身をちぢこませる。嵐が通り過ぎるのを待っているかのような、子供のような仕草だった。
「あれは誰だ?」
俺の知っている風香先輩じゃなかった。俺の知っている風香先輩はあんなんじゃない。
なんだかイメージがぶっ飛んだ。
「相沢さんでしょ」
「そうじゃねえよ」
「……なぁって! 何とか言えよ! バカにしてんのかよ!?」
更なる大声にビクリとなる風香先輩。ぶるぶると震えて、立つだけで精一杯だ。
「……風香先輩」
いつもの風香先輩とは雲泥の差だった。俺の知っている風香先輩ならこんなベタなシーン、笑顔で振り払う。
「やばいんじゃないか、想。あれってかなり怖がってるよ」
ああ、そりゃ見てわかる。あれだけはた目に見て震えているのがわかるのだ。演技や冗談ではないは確かだ。
「あぁ……クソ、どうするかな」
とはいえ無理に乱入すると風香先輩は嫌がるだろう。俺だって自分があんな状態のときに仲間になんか見られたくない。なかなかそんなときは無いだろうが。
「……想、とにかくこのままほうっておくのはマズイ」
そう言うと、条先輩はあっさりと体育館の影から身をさらした。
「ちょ……」
俺も慌ててそれに続く
ざっざっいう、枯れた草を踏み潰す音で真壁が振りかえった。眉を寄せ、条先輩と確認すると、あの心底人を馬鹿にしたような顔で先輩と対峙する。
「……よう、矢吹じゃねえか」
「ちがうな。俺は条だ」
条先輩は首を振った。
「悪いけど、相沢さんには俺から用があるんだ。すこし貸してもらえる?」
真壁はしばらく黙って条先輩を睨む。
「……お前さ、空気の読み方マジで知らないんだな」
はっと真壁は笑う。
「あん時もそうじゃねえか。せっかく大会終わって皆で楽しく終わろうって時によ、お前一人ぴーぴー泣きやがって」
一瞬で俺の頭は握りつぶされるような感覚を味わった。「テメっ……」と前に一歩踏み出そうとすると条先輩は頭に手を置いた。
「それは悪かったと思ってるよ。空気読まなくて悪かった」
「先輩!」
怒鳴る俺に「サンキュ」とつぶやいて先輩は頭を下げた。
「はっ、そう思うなら今も読めよ。この状況で普通話しかけるか?」
「悪いなと思うけど、こっちも色々あるんだよ」
条先輩は一歩前にでる。
「相沢さん。行こう」
奥で震えている風香先輩は、俺たちを見ると、もっと体をビクリと震わせた。少しだけ身を引く。
「……ほら見ろ、風香も嫌がってるだろう?」
バカにしたように、上から下へと俺たちに目を這わせた真壁は、くくっと笑った。
「テメエよかマシだよ」
俺も一歩前に出た。それを条先輩は押し留める。
「やめろ想……とにかく用があるんだ。嫌がっていようがなんだろうが連れて行く」
「だからよ、空気読めつってんだよ」
条先輩はそれを聞くと、少しだけ息を吐いた。
「……相沢さんはお前のことは絶対に好きならないよ」
「……あぁ!?」
真壁は姿勢を崩してすごんだ。歯噛みして、睨む。
「俺はお前にもいいところはあると思う。でもそれを通り越して俺はお前のことが嫌いだ。お前にかかわった奴は誰だってそう思う」
真壁表情がさらに変わった。怒りに顔をゆがませて、拳を握り締める。
「――ッ! ざけんな!」
「――先輩!」
動いたのは同時だったはずだ。
「風香!」
声が響いたのも。全く同時だった。
俺たちはその声に動きを止める。明らかに高校生じゃない、高校生にしては明らかに声が低すぎた。教師だと思ったのだ。
「なにやってんだお前! 大丈夫か!?」
風香先輩に真っ先に走り寄ったその男は、しかし教師ではなかった。その男は男子の制服を着ていたからだ。
そして、どう見てもかなりの美形だった。物凄い美形。ミディアムの髪が綺麗にゆれる。整った顔は、今は不安でいっぱいだった。風香先輩の肩を掴むと、軽く揺らす。
「うん……大丈夫」
ふと、先輩は笑った。引きつったような、相変わらず体を震わせていたが。
(あ……)
「お前ら、何してんだよ! 女に喧嘩見せて楽しいのかよ!?」
うっと俺は息を詰まらせた。そうだ。そうだった。風香先輩がこの場にはいたのだ。
喧嘩なんかしないで、あの男のようにすぐさま風香先輩を助けに行けばよかったのだ。風香先輩は、おびえていたのだから。
風香先輩のもとめていたものは助けだったのだから。
俺は唇を噛む。
「……いくぞ、風香」
男はそのまま風香先輩を引っ張ると、そのままそこから離れていった。
後には、殴られて地面に倒れこんだ俺と、真壁と、立ちすくむ条先輩が残った。
俺は、口の中に広がる血の味をしっかり味わわされた
■
あの時、そういや俺はどうしたんだっけ。
「先輩、私もっと強くなりたいです」
あの時どう応えたっけ。
あの時、あの子は何を求めたんだろう?
「……だめ、ですか。私、まだまだなんですね」
なんと言ったか思い出せない。
きっとこの先も思い出すことは無いだろう。
彼女は、死んでしまったんだから。
ごめんなさい。
謝っても許されない。
それでも、ごめんなさい。
■
青タンを目元に作ったまま、俺はプールを見下ろす。
この学校のプールの作りはなかなか豪勢だ。プール自体が綺麗なのもさることながら、プールサイド横にはかなり高い位置から見下ろせる客席がある。……汚いが。
もともと西神楽東高校は高校水泳ここに極まりと言われるほど水泳部が強かった。特に男子勢の勢いはすごいものがあったらしく、大会に使用されたり、お偉いさんまで見に来るのでわざわざ観客席まで作ったらしい。
残念ながらその水泳部は、体育科と普通科両方に手を広げていた高校が普通化に統一されたことで数年前から勢いがなくなり始め、現在では女子の少数のみにとどまっている。
「……見ろよ想、あれ皆空を見に来てるんだぞ」
条先輩は俺の頭に氷の袋を当てながら横を指差した。そこには用も無いのに十数名の男たちが目を輝かせながら半立ちでプールを見ていた。空の一挙動一挙動にうおおおと盛り上がったり、あああああと残念がったり……楽しそうだなお前ら。
「……なんか、男の素晴らしさがあそこに集められてる気がしますね。けな気で」
「いいとらえ方するね」
男たちの視線の先には空がいる。
空はスクール水着(これはこれで別の魅力があるな、と俺と条先輩は小声で話し合った)で競泳中。やっぱり早い。クロールの姿勢とかが綺麗で、最初は水にぬれた髪とかがなかなかだったので、別の視点で(ごめん空……)見ていた俺もそのかっこよさに見ほれてしまった。すっすっとまるで水が空を押しているように進む。水の精ってのは横の男たちが呼ぶ空の名称だ。
しばらく俺たちは空たち水泳部がきゃいきゃい言いながら泳ぐのを見ていた。
「いいなぁ、若いなぁ」
親父のようなセリフを条先輩ははいた。笑う。
「やっぱり、女の子は一生懸命なときが一番可愛いね。ほら、いっつも格好ばっかり気にする女の子っているだろう?」
先輩はずっと前だけを見ていた。
「そういうところ見てるとさ、なにか言われても言葉が軽く聞こえるんだよ。でも今みたいに頑張ってるところ見るとさ、やっぱり女の子って色んなところがあってすごいなって……」
俺は黙って頭を下げた。
「……何謝ってんだよ」
「……すみませんでした。嫌なこと思い出させて」
俺はずっと頭を下げていた。条先輩は笑った。困ったように、目じりを下げて。
「そんな事で謝るなよ」
「……すみません」
条先輩はぐりぐりと俺の頭をなでた。かなり乱暴なやり方だったが、それでも優しさは感じられた。
「あの男だれかなぁ? 俺、見たこと無いよあんな奴」
「……誰なんスかね」
俺はバッと頭を上げた。真っ青な空に目を向けると、やっぱり真っ白な雲がふわふわと浮かんでいた。
そんなアホ面の俺を見て、条先輩は笑う。
――うん……大丈夫。
――女に喧嘩見せて楽しいのかよ!?
見たことも無い風香先輩だった。男の言葉は、腹に深くねじ込まれる。
「誰、なんすかね」
ふわふわと、雲は漂っていた。こうしてみると、ただ空を見上げるだけでも十分楽しいもんだ。
「ちょぉと変態! アンタ何しに来てんのよ?」
「……俺は変態じゃねえよ」
声を聞くだけでわかる。こいつはこの後一生忘れたりはできないだろう。
視線を戻すと、そこに綾瀬はいた。水にぬれた髪からしずくをぽたぽた垂らし、あの強気な目。腰に手を当てて仁王立ち。水にぬれてもあっつい雰囲気が漂ってくる。
俺はその熱気から逃げるように身を引きつつ疑問に思ったことを聞く。
「お前水泳部だったのか」
綾瀬はちちちと指をふった。
「はんッ、とぼけちゃって。アンタはアタシのナイスバディ見に着たんでしょ? ば・れ・ば・れ・よ!」
クネと腰を横に突き出す。おおっ! 横から男達の上げる盛り上がりの奇声が上がった。
「……なんでそんな小せぇムネを見せて自慢気なのか理解しかねるな」
綾瀬はその言葉にピクリと眉を震わせ、顔をぐっと近づけてきた。
「はぁ!? ふざけんじゃないわよただで見といて!」
「イデデデデデデデデデッ! 耳引っぱんじゃねえよ!」
「こら、綾! やーめーろッ!」
「あ、先輩」
声に振り返ると、そこには空がいた。綾瀬と同じように髪から水をぽたぽた垂らし、少し間の抜けた顔をしている。しかしその目も綾瀬と俺の姿を見ると細められる。
「……仲、良さそうですね」
「はぁ? 俺とこいつがか?」
俺と綾瀬は目を合わせる。じーと見つめ合い
「あれ、アンタ目にアザができてんじゃん」
「あ、いや」
「ちょっと大丈夫……? お兄ちゃん、氷ちゃんとあてなよ」
「お前が耳掴むから当てれないんだよ」
となぜか心配してもらってしまった。綾瀬は条先輩から氷をひったくると、「大丈夫?」とそれを俺の目に当てる。
「いや、全然こんなの……中学時とかの方が……」
「アンタ何言ってんのよ……跡とか残ったらどうすんの?」
「いや、ホント大丈夫だから……」
となぜか優しくしてくる綾瀬にどぎまぎしながら押し問答していると、「あ」と条先輩が俺の肩を叩く。
「いや、ホント……大げさなのは見た目だけだから……ってなんスか」
先輩はいや、だからさ、と指を横に突き出す。その先には……
「空行っちゃったぞ」
「あぁ! ちょっと待ってって!」
追いかけるとふいっと振り向き、しかしすぐに前に顔を戻す。つかつかと競泳用プールの中に戻ろうとする。まてまてまてと俺は情けなく何も無いところで突っかかりながら追いかける。わざわざこんなところに来たのは言いたいことがあるからだ。
「ちょっと待てって! ……空!」
俺はフェンスをよじ登り、腰ぐらいから一気に体をほおりだした。空の体をギリギリで掴む。
「なんですか!? 離してくださいよ、綾瀬と遊んでればいいでしょう!?」
「待てって! ――うをッ」
空が暴れるせいで俺はバランスを崩し、フェンスから落ちそうになる。それを逃れる為、俺は必死に空にしがみついた。
そして
「ふぁ!」
空を抱きしめてしまった。
……あぁ、やってしまった。
きっと俺は殴られるだろう。そして今度こそ本当にふられる。振られなくとも蔑んだ目で「最ッ低ですね!」と言われるだろう。さらに俺は色んな奴に後ろ指指されて言われるのだ「あいつ振られたんだって……」「遊びだったらしいぜ……」「うわ、ダッセ……」「胸触って」「はぁ? 変態じゃん」「想変態」「変態」「変態」……
うああああぁぁぁぁぁ……
マジか!? 俺の高校生活一貫の終わり!
「…………」
俺は覚悟して目をつむった。もうだめだ……グッバイ俺の青春……
「…………」
…………
「…………」
…………
……あれ?
待っても待ってもその時は来なかった。
目を開けて横をみると、空は顔を真っ赤にしながら俺の両腕を握っている。俺の手はしっかりと(ちゃっかりと)空の胸の位置で合わせられていて、彼女の心臓が驚くほど早く飛び跳ねているのがわかった。
「……離してください」
言いつつも俺の腕をぎゅっと強く握り締める。
空の心臓が飛び跳ねているのなら、俺の心臓は暴れまくっていた。どきどきどきどきと心臓が俺の体中を走り回り、顔やらなんやらを赤く染めていく。
最悪だ。条先輩やら空ファンやら綾瀬やら一癖も二癖もありそうな奴らばっかり見てるのに。他の水泳部員も。
水にぬれた空の表情は、いつもの子供っぽい肌に見えず、なんだか妙に大人の表情に見えていた。ついでその水が俺にぺたぺたと落ちてくる。
「……あ、あのさ」
うあぁぁぁぁぁと俺は意味もなく叫びたくなった。何でだ、何でこんな事に……つか、今空は水着だぞ? ほとんど裸じゃないか? そんなの抱いて俺は変態じゃないか!?
と頭はどんどん俺を卑下し続けるが、俺の口は勝手にどんどんしゃべっていってしまう。
「いや、お前今すごい綺麗だよ。可愛い……ホント、ホントに! なんか今、俺お前の彼氏でよかったって今更思ったよ」
――いっぱい話してきなよ。自分のこと、部活のこと、嫌なこと、悲しいこと、つらいこと――
「実は今さ、俺喧嘩してきたんだ。ホント嫌なやつでさ、条先輩の事バカにして、殴りかかってきて、俺条先輩守ろうとしてさ……はは、バカみてぇ。殴られて帰ってきてやんの」
空はフェンスに背中を押し付けられるように俺に抱きしめられながら、黙ってそれを聞いていてくれた。顔を真っ赤にして。
「す……すごい情けないよな! 部活やってんだからそれくらい何とかしろつーの! でも俺ができたことってそれぐらいでさ、風香先輩もよくわかんない男とどっか行っちゃうし」
風香先輩、でビクリと空が反応し、逃げようとする。でも俺は何とかそれを強く抱きしめることで押し留め、さらに声を張り上げる。
「でさ、ここ来てお前見たときにさ、思ったんだよ! お前もしかして不安なのかなって! 俺が先輩選んで祭りに行っちゃうって思ってんのかなって! でも俺、お前の彼氏だから! 彼氏だからさ!」
う、俺は力が抜けそうになった。どうにか体から力が抜けるのは阻止できたが、頭のほうはもうピークに達していたらしく、力が抜けた。ぺたり、と顔を空の肩に乗せる。ビクッと空が体を跳ねさせる。
俺はそれを感じながら、最後の力を振り絞った。
「だから……あの……お、お祭り……一緒……行きませんか?」
「なんか最近、空が『しずかちゃん』に見えてきた」
遠くで空に抱きついている想を見て、条はつぶやいた。
「セクシーシーンばっか見せられてるからかな?」
「バッカじゃないの?」
ふんっと綾瀬は兄の意見に反論する。
「もっとグラマーよ」
遠くでそのグラマーな空は、青い空に白い雲をバックに、コクリと頷いた。
うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおお―――――!!
と後ろでもすごい歓声が上がった。後ろの空ファンが俺に殺到する。その姿といえば波。十数名しかいないのに、物凄い波が俺を襲ってきていた。高い座席から飛び降り走り降り踏んだり蹴ったり――
「のおおお!?」
とか言っているうちに俺は思いっきり持ち上げられた。
「よくやった想! やっぱお前ヒーローすぎ!」
「さいっこおおおおおおお! 今ならお前に抱かれてもいいッ!」
「ついにやり遂げた! 想がまたもやり遂げた!」
「想ぉぉ! 想がまたヒーローになった!!」
わっしょいわっしょいと……お前ら祭り好きなだけか! お前ら空ファンとか言っといてただ単に祭り好きなだけじゃねえか! うわっ! うわっ! やめろ! 投げるな!
「うぬわぁぁああああああ!!」
暑い夏。熱い男たちに手によって、俺は青い空にぶん投げられた。
あぁ、空は蒼い。
空は、蒼い。
でも
――私はこれで我慢してあげる。行ってらっしゃい、想クン
でも、なんで頭に浮かぶのは風香先輩なんだろう
まっさきに報告したい。何でそう思ってしまうのだろう。
もしかしたら俺は、さっき風香先輩を助けられなかったことを俺は謝りたかったのかもしれない。
謝りたくて、でもできないから、俺は昨日の先輩にすがりついたのかもしれない。
風香先輩。ごめんなさい。
俺、空と祭り行きます。
ごめんなさい。
そうだ、空をみろ。
空は、蒼い。
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