■9
その日、学校は妙に浮き足立ったような、そんな空気が充満していた。なんだかその中にいるだけでわくわくするような、奇跡でも起きそうな感覚。夕闇が迫るごとにそれはどんどんこみ上げてきて、夕日が運動場をオレンジ色に染める頃には「うぉぉぉ――!」と意味も無く叫ぶ輩まで出る始末。ついで周りの奴らからの「祭りだぁぁぁ――!」「恋の予感がする! 恋の予感!」「なんかピンク色な予感だ!」「今日の為に俺は新しい服を……」「いやいや俺なんてヴィンテージジーンズを……」「甘い! 俺はコンタクトに……」「バカめ! 俺は勝負下着を……」『マジかよ!?』という様な声が学校の端にある武道場にも響いてくる。
「勝負下着もってるのかよ」
と、俺の横ではははと笑う条先輩。俺は武道場前の渡り廊下の壁に寄りかかりながら「確かに」と同じように遠くで騒ぐ奴らを見ていた。
「……で、今日の首尾はどうなってるんだ?」
騒ぎが遠ざかると、今度はにやにや笑いを浮かべながら、条先輩は俺の肩に手を置いた。
「首尾って、なにが」
俺がその手をぴしッと弾くと、ふふふ、とやっぱり笑う。
「あれだよ、『お、お祭り……一緒いきませんか――』……おおい、待て。帰るんじゃない」
ダッシュで校門に向かう俺に条先輩は飛んで追いすがる。やめてくれ、触るんじゃない。がしがし……
「殴るな殴るな」
うるせーばりばり
「引っかくな引っかくな」
かじかじ
「やめろ。噛まれるのは素で嫌だ」
「は、だったらそのこぎたねぇ手を離しな豚野朗」
ちぇけらっと指を立てる俺に「アメリカンはやめろ」と先輩は的確なツッコミを入れる。……あぁ、でも突っ込むのに蹴りはやめて、イタイイタイ……
ひとしきり蹴り終わると、条先輩は俺の横にまわって、「よっ」と壁にもたれた。
「……で、実際どうなんだ。ちゃんと予定くんでるんだろ?」
俺はそれに「別に」とめんどくさげに応える。条先輩は意外そうに俺を見た。
「なんだ、上手くいってないのか?」
「というか……会えてません。あれ以来一回も」
え? と条先輩。
「なんで?」
俺は首を傾げる。目を細めて、「さぁ」。
「なぜか伝わる情報情報が綾瀬経由なんですよ。あいつ、いつの間にか俺の携帯のメアドも知ったらしくて……うっとおしいから無視してたら、一日に二桁を超える回数同じ内容のメール送ってくるんですよ」
眉を寄せる俺に条先輩ははぁ? と(なぜか)少し笑った。
「なんで?」
「わかりませんけど……好きな食べ物とか、好きな音楽とか、好きな言葉とか、好きな芸能人とか、好きなムネのサイズとか、好きな髪の長さとか、好きな履物とか、好きな化粧とか、好きなエクステとか、好きなクイズ番組とか、好きな法律番組とか、好きな新聞とか、好きなテープの色とか……」
「……前半で意図が読めそうだったけど後半で何が言いたいのかわからなくなってるな」
「好きなエクステの意味がわかりませんね」
「……で、今日のお祭りは?」
「一応計画は立ててあるそうです」
俺はごそごそと垂(剣道の腰につける防具。名前が書いてあって、そこがポケット代わりになる……ホントは怒られるけど)から携帯を取り出し、メール履歴を操作。目的のメールを見つけると、それを「はい、どうぞ」と条先輩に渡した。
「ええっと……? 『明日、会場入り口にて待つ』」
条先輩はふむ、と頷くと「この際スルーだな」と武道場から離れて行った。
「あ、帰るんですか?」
「俺は夏期講習があるからね。楽しんでいって来いよ」
条先輩は学校の敷居であるフェンスをよじ登って、外に出た。そこに停めてある原付に腰を下ろす。あ、そうだ。
「帰り何時ですか?」
「ん? そうだな……九時半くらいかな?」
「じゃ、帰り頼みます。送ってください」
条先輩は、苦笑した。
というような、男同士の暑苦しい軽口を叩き合っていたのはちょうど四時ごろ。
そこから家に帰ってシャワー浴びてテレビ見てやっぱ湯船に浸かっていい風呂だったと親父発言を呟きつつ鏡に向かってセット開始して十分ほどかけてセット完了。よしよしこれで俺もなかなかの男になったろう……そこで携帯がなった。
取り出すと空からのメールだ。
『来たくなければ来なくていいですけど、六時半には会場の入り口に来てください』
「…………」
と返信内容に悩んで、結局メールは送らずにおいた。
家を出て、徒歩で近くの駅に向かう。駅員さんと「お祭りがあるらしいね」「あ、俺行くトコです」「おお、楽しんできてくれよ。私は皆の楽しむ顔見て座っとかないといけないからな」「ご苦労さんです。いってきます」とか話しながらホームに来た電車に乗る。
電車の中はやっぱり、この地域の結構な大イベントである天神祭りに行く客でごった返していた。自転車で行けばよかったかなぁ、と呟きながらぎゅうぎゅうと押し込まれる。
客の中にまばらに見える浴衣がなかなか壮観だった。「あぁ、これから夏祭りにいくんだなぁ」と思うと少しわくわくしてくる。
ん? と今更ながら気がつく。
空は浴衣を着てくるのか?
電車を降りて駅から出ると、いきなり視界が真っ暗になった。
「…………」
「だーれだ?」
「……お前さ、意味のわからねえメール送りつけてくれるのやめてくれ。あと、手が冷たい。お前冷え性か、その歳で」
俺の視界は手から解放された。直後に、バキッとわき腹に一発。
「――って!」
「アンタ、少しは喜びなさいよね」
振り返るとそこにいるのは生意気そうにあごを突き出して上から俺を見下す女。
「……? 綾瀬だよな」
しかしそこにいたのは俺の知っている暴力的な女ではなく、なぜか清楚そうなストレートの女の子だった。見下す仕草は全く清楚ではなかったが。
女の子は肩をすくめる。
「空に会えるからって、興奮しすぎて頭がおかしくなったんじゃないの?」
「…………」
やっぱり綾瀬で当たりだ。言動がムカついてしょうがない。
「あ、それとも……」
薄目で心情を表していた俺に、綾瀬は頬を寄せるようにして片目で俺を見る。
「アタシに惚れた?」
「死にさらせ。お前はなんでここにいるんだ」
即答した俺にむっと綾瀬は下から俺を睨む
「アンタの為でしょ。空がアンタから逃げないようにここまで引っ張ってきたんだから」
「……はぁ?」
なんだそりゃ。そんなに俺に会いたくなかったのかよ、とちょっとへこむ。
「『はぁ?』じゃないわよ。感謝の言葉もないわけ?」
「まぁ……とりあえずありがとう」
綾瀬は腰に手をやり、フフンと鼻を鳴らした。
「よろしい! じゃ、アタシ空を呼んできてあげるわ」
「え? ここにいるのか?」
「アンタが遅いからコンビニで待ってたのよ! ちょっと待ってなさいそこで!」
「お、おい……」
言うが早いか綾瀬はタタタ……と駆け出し、駅の裏へ消えていった。……しかしアイツ、ジーンズにシャツとはどういう了見だ。ホントに高校生か?
ぼんやりとしていると、手が自然にジーンズのポケットにずれた。そのまま何の考えもなしにマルボロを取り出し、ついでに軽く羽織ったブロックチェックのシャツからジッポも出す。
指を立てると、カジッカジッと鈍い音を立てるジッポから火花が飛び出した。
――浮かんでは消え、浮かんでは消える
ガジッと音がかぶさった。
「……あ、噛んじまった」
なぜかタバコのフィルターが俺の歯でぺしゃんこに噛み潰されていた。歯形がくっきりと残ったそれを、俺は指で形を整えて再度口に挟む。
(……なにやってんだ?)
どうも最近は調子が悪いみたいだ。体の動きも制限できてない。ついでに、ちょっと無気力になってる。
もう一度ジッポをすると、今度はちゃんと火がついた。タバコの先端に、小さな明かりが灯る。その煙を吸い込むと、なんとなく心が落ち着いた。肩の力が抜け、顔が弛緩する。
「……来た……んですか?」
ん? と俺は眉を寄せた。聞き覚えのある声だ。でも、その声はいつもの調子とは違い、少しだけ、落ち込んだような声だった。
振り返る。
「……あー……こんばんは」
「……こんばんは」
一瞬目をこすりそうになったが、それはかろうじて制した。よかった。今ここで変な動きをしてみろ、この、俯いたまま手を胸の前で握り締めているこの女の子は、倒れてしまうだろう。そう思わせるほど、空の姿ははかなげだった。
まず目に入ったのは表情だった。
一目でわかるほど落ち込んでいるその表情。伏せ目がちなその目は、たぶん地面しか見てない。全体から見受けられる印象は周りの喧騒とは対照的に暗かった。肩が小さく見える。
ついで目に入るのはその姿だった。電車の中で頭の片隅をよぎったように、確かに彼女は浴衣だった。真っ青な群青色に優しげな水色が見え隠れする。まるで本当の『空』なのではないかと思わせるような綺麗な色使いだった。
「あの……」
しかし、それを着ている女の子は妙に暗い。じっと地面を見つめて、うーとか少しうなっている。俺は
「どうすし……どうしたの?」
と数分の間の後に噛み噛みになりながら聞いた。悲しいほどに俺はこういうシュチュエーションが苦手だった。女の子というのは俺にとってはかなり異質な存在で、特にこういうときにはどう扱ったらいいかわからない。
空は相変わらず「うー」を続けながら首を振った。
「別に……なんでもないです。いきましょう」
「あ、あぁ……」
……なんなんだ?
「それでさ、俺その時条先輩とにらみ合ってさ、条先輩なんて睨んだまま『消えろ』とかつぶやいてんの。あの人絶対自意識過剰だよなー」
「…………」
普段、道が広いことで有名なこの場所も、祭りの日は露天でいっぱいになり、そこに集まる笑顔の溢れる人々で狭く感じる。だが、それは決して不快感を伴うようなものではなく、むしろ心を浮き上がらせるような雰囲気で包まれていた。
だが
「……なぁ、空。金魚すくいだって。風香先輩こういうの得意らしいよ。このあいだ一時間くらいそれで自慢話しててさ……」
「…………」
「あ、サメつり。小学生の頃一等賞とったんだよ」
「…………」
相変わらず空は俯いたままだった。……いったいなんなんだ。綾瀬も送り出すだけ送り出したらそのまま帰ったらしい。いい加減、というよりは空がいない祭りに興味が無いらしい。そこまで空にこだわるのか、と俺が言うと、やっぱり空は黙ってしまった。
『皆様にお伝えいたします。こちらは、天神祭り実行委員会です。本日、午後七時より緑地公園にて、花火が打ち上げられます。ご家族、ご友人お誘い合わせの上……』
「……あ、花火」
そういえば忘れていたが、この天神祭の1番の目玉は花火なのだ。二時間の内に三千発も打ち上げられるそれは、見に来た客を毎年圧倒する。それを求めて全国から客の来る天神祭だが、残念な事に地元では人気がない。
「……もっと他に使う所があるんじゃないですか」
……という意見があるからだ。ちなみに
「あ、あぁ。そうかもな」
と空に合わせる俺のような隠れ『花火は夢を買ってるんだからいいじゃないか』派もいる。
「あ、あのさ……」
「なんです」
「……なんで怒――」
「怒ってません」
むーと言いながら即答。取り付く島無し。むしろ流れ着いた矢先に押し返されている気がする。
――いっぱい話してきなよ
(あんまり効果ないんですけど……)
俺ははぁ、と今度ははっきりと聞こえるようにため息を着いた。意味がないだけならまだしも、空気が不穏だ。
空はため息をつく俺を見ると、むっとした顔をして俯いてしまった。
(……だけど、これはなぁ)
不穏な空気に包まれつつも、横を見ればいつもとは全く違う空の姿。
髪を……これはツインテールというのだろうか。ぴょこんとウサギの耳の様になる普通のツインテールとは違い、ペタリと……なんというか、困ってしまって耳を垂れた猫のようになっている。普通のツインテールより結ぶ位置が低いのだろう。確かに空は怒っているのだろうが……なんだかふてくされたネコみたいで妙にかわいく感じてしまう。
着物も群青色のベースに白が混じるという真夏の快晴のような色合いだった。よく似合っている。見ているだけで胸いっぱいに涼しくて蒼い風を吸い込んだみたいだ。
「……」
でも表情は浮かない。つーんとしてすねまくってる。
確か前、同じような時に風香先輩がいて機嫌を直してたような……いや、あれはダメだ。胸揉んで「やわらかーい」とか言うんだった。さすがに今やったら(今じゃなくても)気まずさが倍増するだけだ。というか捕まる。
うーどうするよ俺。と考えていると
ドーン
という、お腹を衝撃がとおり抜けるような音が響いた。あれ? なんだ?
と思って立ち止まる。と、次の瞬間にはぱっと光りが辺りを照らし出した。
「……花火……ですね」
空がすっかり暗くなってしまった夜空を見上げて呟いた。俺もその、光りに照らされてゆっくりと震える唇に誘われるように空を見上げる。そこには綺麗な七色の大輪が視界いっぱいに広がっていた。
「…………」
綺麗だなぁと、素直に思った。
まるでホントに輝く花を眺めているようだった。祭のワクワクとした、浮き立つような空気に堪え切れなくなって爆発した花。夜空に飛び出した彼女は、まるで見ている人間達すべてを抱きしめるかのように花開いた。自分を開放した喜びに身を震わせ、踊り、微笑む。
そして最後には、フワリ、と夜空に溶けていったのだった。
「……綺麗、だな」
言葉に出すと、さらにその気持ちは高まる。まるでひとつの物語りでも見ていたような気分だった。辺りから静寂が消えて、ヒューと口笛が鳴らされるような頃になっても、なんだか切ないようなそんな気持ちが胸の中には残っていた。
「……別に」
しかし
しかしだ。
「……え?」
「別に。綺麗だとは思わないです。いきなり撃ったりして、びっくりしたし……」
コイツは素直じゃなかった。ウソつけ。さっき小声で「ふわぁ……」とか言ってたくせに。しかも、手を握られた。
俺はそっぽを向いて「むー」とうなる空の頭をポンポン叩いた。
「素直じゃねぇー」
その言葉に空はバッと俺に振り返った。ぎゅぅぅぅと手を握られる。
「素直に応えてますけど」
「驚いたってトコロだけだろ」
ホントに思わずといった感じで、反射的に手を握ったらしい。むちゃくちゃびくついていた。思わず俺もびくついてしまったのだが、空はそれでも握っていた。今もそのまま握りっぱなしだ。
「……全部素直な感想です」
「ああ、はいはい」
空の顔は相変わらずむっとした表情だったけど、手は離さなかった。……ていうか痛い。でもこれを言ったら怒られそうなのでやめておく。
また、ドーンと音が響いた。
ぎゅうぅと手が握り締められる。
「……花火、見に行くか」
俺は握られた手の暖かさを感じながら呟いた。わぁぁと盛り上がる辺りとは対照的に俺達の空気は随分冷めていたが、俺はそれでもいいかと思った。「別に……興味ありません」と言う空の手をひっぱって歩き出す。
「ふあ……どこ行くんですか?」
「言ったろ。小学生の頃俺はよくここ来てたんだよ」
空は足を止めた。振り返ると、じっとしたから俺を睨んでくる。
「また思い出話ですか……そんな話聞くためにここに来たわけじゃありません」
「…………」
先輩、だめですけど。
俺はブンブン頭を振ってその思考を吹き飛ばす。もういい。この際考えるな。
――でもさ、お前考えてるだろ。そういうの、理屈じゃないんじゃないか?
考えたって、しょうがない物があるんだ。
「いい所があるんだよ……昔柴田が見つけたトコ」
「……アレのどこら辺が上手くいってるの?」
と、細々と呟いたのはボクシング部エース、柴田だ。その大仰な肩書きとは裏腹な柔和な顔は、今は少し渋そうにゆがめられている。
「なぁんでもっと接近しないのかな……セッティングは最高だと思うんだけど」
そしてその横でやっぱり渋そうな顔……こちらは手まで握り締めるかなりの苛立ちを含めた表情をしている……のは空を送り出した後、こっそり後ろからニヤつきながら付いて来ていた綾瀬だ。彼女の格好は着物に赤いアンダーフレームのメガネに、結い上げた髪など、想が見たときとはまったく違う格好にセットしてある。
二人は喧騒の響く露天の光に包まれた道路をこそこそと歩く。どちらかというとそうやって歩くほうが目だってしょうがないのだが……その辺りは若い無知でカバーしている。
「何で空は怒ってるんだろう」
先ほどサングラスをかけて「うしし」とか笑っていた綾瀬を不審者と勘違いして捕まえようとした手前、あまり強気になれない柴田があくび交じりに呟いた。彼はその後、綾瀬に無理やりつれて来られている。
一方乗り気じゃない柴田とは対照的に、本気で悔しがる綾瀬は歯噛みしながら「知らないわよ!」と怒鳴った。
「もぉ……何で? さっきはアタシとたくさん話したじゃない」
「……というか綾瀬はいつの間に想と空を応援するようになったんだ?」
柴田のどこかピントのずれた質問にも綾瀬はイライラしながら答える。
「想を応援? 何頭悪いこと言ってんのよ? アタシは空が幸せになってくれればそれでよし。あんなぱっとしない男でも空を幸せに力があるのなら、思う存分利用してやろうとしてるだけよ」
「……ふーん」
柴田はふあああとあくびをもう一度かみ殺した。なんだかよくわからないが、とりあえず綾瀬が彼ら二人を邪魔しようとしているわけではないのがわかっただけで彼としては満足だった。後は自分が友達と一緒に子供の頃から慣れ親しんだこの祭りを楽しめれば最高だ。
「……ちょっと、アンタなんで帰ろうとしてんの?」
「いや、だってさ……」
「だってじゃないわよ。さっさとついて来なさい!」
「…………」
柴田としてはこの状況は閉口するしかない。考えてみれば自分のほうが先輩なのになんだこの扱いは。柴田はぶーぶーと口をとんがらせた。せっかくの祭りもこんなわけのわからない奴の為に全部パーだ。
柴田はため息混じりに適当に話にあわせる。
「さっきは話したんだろ? 何を話したんだ?」
「だから、あたしの話よ。アタシが空とお祭りに行った思い出とか、空とアタシで毎年金魚すくいしてた話とか、あと、中学校の頃に空が気持ちの悪い男の子に付回されて泣いちゃって、その時アタシが大活躍した話とか……」
「なんだそれ。ほとんど空の話じゃないか」
柴田は頭を抱えたくなった。何をもってこの子はこんなにも空に肩入れするのか。まるで人生の大半が彼女の為に費やされてみたいに感じる。
「だって……じゃあアンタは友達との思い出とかないわけ?」
「まぁ、あるよ。想と始めて屋上に上がったとき、もろくなった手すりが壊れて地面に落ちてさ。あの時は大変だったよ。先生がいっぱい屋上まで上がってくるし、隠れてるポンプの近くにまで寄ってくるし、想はホフク前進とかしながら見つかるし……」
「ほら、やっぱりあるんじゃない」
「いや……うーん。これは綾瀬のとは少し違うような……」
柴田はまたも閉口する。ついでに首もひねって「なんかなぁ」とぼやいた。
「……つまりそれはこういうことでしょ」
綾瀬はめがねの下の目を凝らして空と想の後姿を見つめる。二人は仲むつまじくという感じではなかったが、花火を見るとぼんやりとした調子で歩き出した。空がごねるが、それをなだめて想が引っ張る。
「……誰かの思い出を持ってるってことは、その誰かにも自分の思い出を持ってもらえるってことよ。それは幸せじゃない」
「……? そうかな」
相変わらずさかさかと動き回る綾瀬は、回りから見たらどう見ても変人としか思えなかった。柴田はそんな彼女から少しだけ距離を置く。
(……思い出を持ってもらえる、かぁ)
でもなぁと柴田は思った。
(想がなぁ……うーん……俺の思い出をねぇ……)
どうにも想が自分のことを思い出としてとっておいてくれてるかどうか、柴谷はいまひとつ自信がもてなかった。
そうだ、彼は昔からそうだったのだ。誰かと積極的に深くかかわることは本能的に避ける人間なのだ。たぶん。
ドラマのような話だが、実際このタイプの高校生はたくさんいると思う。本当に『友達です。俺の思い出の一つと数えてもいいです』と言える奴がこの世界にどれだけいるのだろう。きっとほとんどいない。数えるほどもいないのではないだろうか。そうやって自由に動き回れる高校生がこの世界にいるのだろうか。
きっと、この世界のほとんどの高校生がそうだろう。友達という枠に縛られ、『本当』という言葉に縛られ、『友情』というものにも憧れ、『仲間』という言葉の重みに押しつぶされそうになって、膝を突いてるのがほとんどなんだ。
ふぅ、と柴田はため息をついた。そうだ。目の前にいる。
あまりに他人に固執しすぎるとこうなるのだろう。『本当』の友達で、仲間だからこうして彼女は付いて回っているのだ。想とは全く逆のタイプといってもいい。想は『友達』が重すぎて、怖くて一歩引いているタイプ。綾瀬は『友達』という言葉が重過ぎて、それについていくのに必死になっているタイプ。きっとその対象となっている空も同じだと思う。
(あー……そうなるとアレだなぁ……)
柴田はうーんともう一度うなってしまった。
「もし想の思い出に、空がいなかったら、空はどうするんだろう……」
どーん
どーん
どーん
「お、三連弾だ。たまや」
「…………」
土手の上から首を痛めながら花火を見上げるほかの客達を見下ろしながら、俺は呟いた。
俺がひっぱて来たのはつまり
「屋上の眺めは最高だって、柴田言ってたんだよ。去年もここに来て花火見てたんだ」
学校の屋上だ。屋上へ向かうには二つの手段がある。一つは鍵を使って校舎内部から侵入する経路。もう一つは校舎背部の緊急用の階段を上ること。どちらも最後には鍵が必要となるのだが、夜は内部の警報機がなるので緊急用の階段のほうが楽に上れるのだ。
空は「規則が……」とか「危ないから……」とかいろいろとごねていたが、結局俺が引っ張ると「うー」を繰り返しながら付いてきた。
で、今は俺の隣で手すりから少し離れて花火を眺めている。
「…………」
空は結局ここに来てもむっつりと黙っていたが、今は少しだけ頬が緩んでいた。目は怒っているが口元は笑っている。少しむずがゆそうな、怒っていることを見せ付けるのに疲れて困ってしまったような、そんな表情をしていた。
どーんと花火が上がると、フワッと光がはじける。その光に空の顔は照らし出されていて、なんだか青い月に照らし出された瑠璃色の杯のような、神聖な美しさがあった。手で触れたいけど、さわった瞬間にその輝きが失われてしまう。そんな美しさだ。その口元は、やっぱり、どう見ても笑ってる。
何が原因だったのかはわからなかったが、とにかく機嫌は少しは直ったようだ。無理やりにでもここにつれてきて正解だった。
実際ここから見る花火は最高にいい。昼間は青い快晴が、夜は少し遠くの街のイルミネーションが輝く。今はそれに花火が混ざって、空気も浮き立つ。
「……なんで怒ってたんだ?」
俺はその空気に頼るようにそっと、様子を探るように口に出してみた。内心はこわごわ、表情は楽しげに。
きっと答えは返ってこないだろうなと思った。第一、花火の音で俺の声は聞こえなかったのじゃないだろうかとか。現実はやっぱりその通りらしく、空はしばらくの間押し黙っていた。俺はもう一度聴いてみるかどうか考えて、やっぱりやめた。せっかく楽しそうにしてるのだ。それを邪魔するのも悪い。
と、そんなことを考えている俺の背に、何か温かいものが当たった。
「……?」
トクトクと小さく心音も感じる。その生命の息吹は、体温より少し熱く、俺の背中を妙にあったかく刺激していた。
なーご
「……なーご?」
意味不明の単語に一瞬思考が停止する。え、なーご? Nergo?
そんな単語あったっけ?
思考停止した俺の横で、空もその音を聞きつけていたらしく俺の後ろを見ていた。なんでもないことのように呟く。
「あ……猫、ですね」
「猫? にゃんにゃん?」
振り返ると
なーご
と返事でもするかのように真っ黒な猫が咽を鳴らしていた。俺の背中に寄りかかっていたのか、ごろりと横になっていた。
「おお、にゃんにゃんがなんでこんな所に」
ここは学校の屋上だぞ。どうやって上ってきたんだ? よいしょ、と一口サイズな(ジョーク)猫を持ち上げると、ひざの上に乗せてみた。「どうやって上った? にゃんにゃん。貴様、この難攻不落の要塞にどのような手段で……」とか云々問い詰めてみたが、猫は
なーご
の一本スジで通した。おのれ、猫のくせしてご立派に黙秘権の行使か。このヤロ、このニャロ……
と、うりうりと猫のヒゲをいじっていた俺の横からクスクスという笑い声が漏れる。振り返ると、空が楽しげに俺を見て笑っていた。
「フフ……先輩、『にゃんにゃん』って、猫のことですか?」
「ん? そりゃそうだ。な、にゃんにゃん?」
と俺は猫の顔をほれほれーと撫で回した。
なーご
と猫は応える。
「『そうだニャー』」
と勝手に訳してやると、空はまたクスクス笑った。しゃがみこんで、俺のひざの上で丸まっている猫の頭をそっとなでる。
「かわいい……ですね」
なーご
と猫は応える。
「『ありがとニャ。空ちゃんもかわいいニャ』」
となんだかバカップルっぽい訳を放ってご機嫌をとってみる。空は少しだけ顔を赤くしたが、すぐに「ありがと」と猫に頬ずりした。
しばらくの間、ずっと空は猫をなでていた。その間、猫はなーごと気持ちよさそうに咽を鳴らしていた。どーんという音も響く。
ふわっと、涼やかな夏の夜の風が俺と空の頬をなでていった。
「……先輩」
その時、ようやく彼女は俺に話してくれた。
「何でメール、返してくれなかったんですか?」
ジト目で。下から睨みながら。
「……いや……だってさ、あんなメール送られたら返しにくいじゃん」
数分間の沈黙の後、俺はようやくそれだけ口にした。
いや、正直な話をしよう。正直俺は
「……あのメールのどこがいけなかったんですか」
ぶすっと呟く空。すねているが、もう怒ってはいない。頬を膨らませてじーと俺を見上げる。
俺は、それを見ながら呆れていた。
なんだそりゃ! そんなことであんなにもだんまり決め込んでたのかよ!
とか。もちろん
「どこがって……まぁ、素直じゃないんだよ」
そんなこと一言も言わないが。
空はむうううぅと長く呟くと猫を俺の膝から奪った。半分寝ていた猫はなーごと文句をたれるが、そんなことは空には関係なかったらしい。うり、と猫の手をとるとそれで俺の顔を殴る。
「『すなおニャー! ウソをいう想にはぱんちニャー』」
ぽかぽかぽかぽかイテぽかぽかイテテぽかぽかぽかぽかいや、マジぽかぽかツメ! ツメく込んでるぽかぽかぽかぽか……
と九つの花火が打ち上げられる間俺を殴り続けたあと、空は『ぱんちニャー』と言うのをやっとやめた。ぺちぺちと俺の頬を今度は空自身の手でやわらかくはたいた後
「……でも、これで許してあげます」
と呟いた。俺は「……にゃー」と鳴いてやって返した。空はそれにやっぱりくすくす笑い、「よしよし」と俺の頭を撫でる。
うーん、なんだかいつの間にか俺、手玉にされてないか?
どーん
「……ま、いいか」
のん気な音と共に打ち上げられる花火を二人で見上げると、空はにこっと笑いながら「やっぱり訂正します。花火は綺麗かもしれません」とつぶやいた。「一緒に見ると」ととも小声で呟く。
「ですよね、先輩」
「……あ……いや……」
今度は俺が赤面する番だった。
慌てふためいてあーいやーそれはーとじたばたする俺の横に、空は座った。ぺたりとお尻をコンクリートの床につけて、「ふわ、つめたーい」とか呟く。
そして、そっと俺の手の上に自分の手を重ねた。
「先輩」
「う、あ?」
混乱しまくっていた俺はその声でやっと空が俺の耳元で口を開いていることに気がついた。ふっと小さな呼気とも、ため息ともつかない微妙な温度の息が俺の耳を赤くする。
俺には絶大な威力をもっていたそれは、本人にとっては違ったらしく、空は小声で、言いにくそうに呟いた。
「……もう一回……手、いいですか……?」
きゅ、と手を上から握る。空の顔を見ると、その顔は真っ赤だった。それでも俺の目から瞳をそらさず、じっと見つめてくる。
俺はそれに負けるように「……あ、あぁ」とつぶやいていた。すぐに俺の手に温かい体温のそれが絡み付いてくる。やわらかい、まるで皮膚とは思えないほど柔らかなその手は、俺の部活でざらざらになってしまった手を包み込んだ。
「…………」
そしてそのまま、空は黙り込んだ。黙ってどーんと上がる花火を眺めていた。
花火は俺達の顔を照らす。夜空が明るく輝く。それを俺達は、手を繋ぎながらずっとみていた。空は手の握り方をゆっくりと変えながら、俺の手を絡めながらじっと見ていた。
そして時たま俺のほうを見る。恥ずかしいので俺が見ないようにしていると「何で気がつかないの?」と言わんばかりにぎゅううと俺の手を握った。俺は無言で、心の中で「うああああぁぁぁぁぁぁ」とか叫んでいた。
カンカンという階段を上がる音が響いたのは、花火がクライマックスになってからだった。
「……やばい、誰か来るな」
俺は一番いいところで来るのか……と意気消沈しながら立ち上がった。さすがにここでバレるのはあまり得策じゃない。相手が警備員だったりして、大事にされると面倒だ。
空は「そうですね」と呟いて俺が手を引くままに立ち上がった。少しだけ背伸びをし、猫を逃がす。猫は名残惜しそうに俺を見ていた。
俺は猫を一度撫でると、よし、と辺りを見渡した。どこか隠れれそうな所を探す。といってもだいたいどこに隠れるかは決まっている。屋上に隠れる場所といったら一つしかない。ポンプ裏だ。俺は空に見えるようにそれを指差すと、空はだまってコクリと頷いた。
その間にもカンカンという音は響いている。俺はそれを少しだけ気にしながら、ちょっと急ぎ足でポンプ裏に急いだ。
カンカンという音。それに俺達の歩く音。
どうやら階段を上ってきているのは一人ではないらしい。二人分の足音が聞こえる。
「……?」
ちょっとまて。
俺はふと、脚を止めた。おかしくないか? こんな普通の公立高校に警備員が二人も付くのか?
「……でね……さ……」
音に混じって小さく声が聞こえた。大人の声でもなければ、男の声でもない。女の子の声だった。ますますおかしく感じて頭をひねる。
「……普通の、人なんじゃないですか?」
空のその呟きに俺は「ああ、そうだな」と言おうとして、
そして、ピタリと体を止めた。
「屋上から見たほうが絶対にいいよ。いつも後輩君とここに来るんだけどね、夜景とか、夕焼けとかすごくきれいなの」
「ウソだろ……?」
思いたくなかったが、考えるより先に口に出ていた。俺の強張った声に、空が「あ」と声を上げた。
間違いない。
上ってきているのは風香先輩だ。
そしてもう一人、同時に上ってきているのは
「……またあの後輩の話か。俺はアイツは嫌いなんだよ。弱いくせに、この間みたいに喧嘩しようとしたり……」
あの、男だ。
ごきゅ、と咽が鳴った。そうだ。謝らないと。
この間、喧嘩に巻き込んだりしてスミマセンでした。すぐに助けたかったのに、ごめんなさい。祭り、空と一緒に来てたんです。すみません。一緒にこれなくてすみません。それで……それから……
階段へ向けて、一歩足を踏み出す。そうだ。風香先輩に……!
「――ッ!」
だが、それは引っ張られた手によって阻止された。後ろを振り返ると、空が睨むようにして俺を見ていた。
「……ダメ」
震える声で、呟く。
だけれど俺はその手を振り払うようにしてはがした。今は空の話を聞くよりも風香先輩に謝りたくてしょうがなかった。あのときの失敗を取り戻すのに、俺は必死だった。
だが
「ダメ!」
がっ、と腰を掴まれた。そのまま力任せにポンプの影に引っ張り込まれる。俺は角度的に微妙な位置だったのが災いして、そこに腰から倒れこんだ。
俺の前で息を荒くして肩を押さえつけてくる空に、俺は眉を寄せる。
「お前……!」
「ダメです!」
空の声は、今、はっきりと湿っぽくぬれていた。はっとして顔を見ると、その瞳には涙が浮かび、綺麗だった顔も、悲壮な表情でゆがんでいた。
う、と俺は息を詰まらせた。一瞬だけ空を押しのけて風香先輩に会いに行くか、空をなだめるかの二択で迷ったが、すぐに体を起こそうともがく。やはり頭は、先輩に謝らなくてはという気持ちが強かった。
くすくす、と笑い声が屋上に響く。風香先輩の声だ。
俺はその声に合わせるように、空の肩を掴み、ぐっと押し返した。空はその瞬間、物凄く悲しそうな顔をしたが、そんなことは俺の頭からはすぐに吹き飛んだ。少しだけ遠い手すりに寄りかかるその影を見つけると、声をかけようと口を開く。
「風香せ――ッ!」
むが、と口を思いっきりふさがれた。
頭を両手でつかまれ、至近距離で空の表情が見える。鼻先が、完全に触れ合っていた。
空が俺の口にキスをしたのだと気がつくのに、俺は数秒の時間を要した。
「――ん、む――んッ――」
もがくが、空が頭をつかむ力に位置的にかなり不利だった俺には、それはあまりにも非力な抵抗だった。空は目をつむり、俺をコンクリートの床に押し付けてずっとキスをしていた。酷く暴力的で、およそ空には似つかわしくない行為だった。
数十秒の後、ぷは、とやっと空は唇を離した。空を見ると、その顔は真っ赤になると同時に、背徳感から来るものなのか、なにか黒い感情に包まれていた。自分が犯した罪に泣きそうな、そんな顔だった。
「……はぁ……はぁ」
何の準備も無く押し付けられた唇のせいで、俺の息は上がっていた。空に押さえつけられたまま、空の表情を見つめる。
空は、俺を見つめながら口を開いた。
「先輩……どうして私の思い出が無いんですか」
「……は?」
空は泣いた。さっきまでうっすらとしていた涙が、今度ははっきりと嗚咽交じりの涙に変わる。押さえつけられた俺の顔に、ポタポタとそれがしずくを垂らした。
「先輩の思い出は私以外のほかの人との思い出ばかりです……! どうして先輩の中に私がいないんですか!? そんな思い出、聞きたくない! 私の中には、たくさん想先輩がいるのに……!」
「…………」
そうして空は、俺の胸の上で嗚咽を上げると、それを押し殺すように俺の顔に唇を近付け――それはエンドレスに続く。
■
「卑怯よそんなの」
「卑怯ではないだろ」
と、射的場の前で二人の男女が騒ぎあっている。柔和な顔をした男の横で、上品に結い上げた髪をわしわしさせながら女が恨み言を呟いているのだ。
それはすなわち
「だから、本物の射撃じゃないんだから……これで正解なんだよ」
「いいえ違うわ。そんなに腕を伸ばして的に近づけて……それが射的といえるはずが無いわ!」
ということだ。柴田がその長身とリーチのある腕を生かして射撃の的に極限まで近付いていることが気に食わない綾瀬は、撃とうとしている柴田の横でぴょんぴょんと飛び跳ねながらがうがうとうなっているのだ。露天のおじさんも「おお、姉ちゃんいいぞ。もっとやれや」と面白がってあおるものだから、その争いはなんだか骨肉の争いへ。
「は、ふざけるんじゃないわよ。そんな卑怯な手段を使っておいてボクサー? なめんじゃないわよ!」
「射的とボクシングは全然関係ないだろ」
ポコン、と引き金が引かれて、猫のぬいぐるみがぐらつく。しばらくゆれると、前のめりになってぽとりと落ちてしまった。
「あーおじさん! それ、いらないからね! そんな卑怯な方法で取った商品なんかあたし要らない!」
「卑怯じゃないし。それに綾瀬にあげるとも言ってない」
はぁぁぁぁああああ!? ふざけんじゃないわよッ女の子とあるいてんのにそんな事言うわけ!? まともじゃないわよ! 男の風上にも置けない! という言葉の応酬に、あーうるさいうるさいと柴田は返して、黒猫のぬいぐるみを露天のおじさんから受け取ると、すたすたとまた歩き出した。
そうして綾瀬のきゃんきゃんわんわんとうなる声をスルーしながら、柴田は呟くのだ。
「……あれ、俺なんでこんなトコにいるんだろう」
迷子の羊達を乗せて、夜は、のんびりと更け行く。
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